いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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神谷美恵子 6 スイス時代 その2

 このスイス時代で特筆したいことが二点ある。それは彼女の良心の萌芽とも思われる出来事と、おそらく彼女の原風景であろうと思われるスイスの自然についてである。

 彼女たちが暮らしていた家は豪奢な石造りの3階建ての建物だった。政府からの正式派遣であり、国際舞台ではまだまだ後進国であった日本の威信を一身に背負う大使の役目もあった。そのため何かにつけて「日本の恥」にならないようにという標語のもと、日本での生活とはずいぶんとかけ離れた背伸びをした暮らしだった。家の一階の応接間には金色のスタインウェイのグランドピアノが置かれ、テーブルやソファや椅子も木材はすべて金塗りで、背や腰かけや肘かけの部分はゴブラン織りの布で覆われていたという。
「この大きな家の応接間の、この大きなピアノの前に足をぶらぶらさせながら腰かけ、教えに来て下さるやせた、若い女の先生が、恥ずかしそうにそばに立って、バッハ、クープラン、ラヴェルなど、やさしく編曲したものを弾かせて下さった。こうした曲への好みは私が成人するまで、否、私の子どもたちにまでぬきがたく心にしみついている。このほっそりした内気の先生にならっているとき、名状しがたい、うしろめたさのようなものを、レッスンのたびに感じた。それはこのピアノの先生がいかにも貧しそうだったからだ。S学院の時は金持ちの令嬢たちの間で自分が貧しいという意識で恥ずかしかったのだが、この場合は逆の立場に自分が立ってしまっているのが、もっと恥ずかしく思えたような気がする」
 聖心女子学院で自分の貧しさが恥ずかしく子どもながらにつらい思いをしたことが、この内気な先生の言動に見え隠れして胸がいたくなったのだろうか。まるで自分が先生をいじめている加害者にでもなったような気持ちだったかと思わせる。彼女はここで貧富の差を超える考え方を知らず知らず模索し始めていたと言っている。 
 そして寺子屋学校でも心にチクリとする出来事があった。
「午前のおやつはめいめい自分の家から持ってくることになっていた。私たちのはマルグリット(家付きの小間使い)が作ってくれていたのだが、「プチ・パン」にコールド・ミートがはさまっていることが多かった。それに板チョコとか、果物を持たされる。りんご以外の果物は当時のスイスではぜいたく品らしく、いつか桃を持たされたときは、珍しい気がした。その桃の皮をむいていたとき、となりにいた白系ロシア人のサッシャという男の子が、ベンチの上をいざり寄って来て、熱心に私の桃の皮を眺め始めた。蒼白い、やせた子で、いつも寒そうにしている。
「ぼくにその桃の皮くれない?」とつぜん彼は言った。
「え?どうして皮を?実のほうがおいしいじゃない。実をあげましょうか」
「いや、ぼくは皮が好きなんだ。皮のほうが」
彼はそばかすだらけの顔をくしゃくしゃにしながら、断固として言い張り、むしゃむしゃと皮を食べてしまった。
 彼は実のほうが好きだったにちがいない、とその後私は罪の意識とともに確信するようになった。S学院で私はいつも自分を「貧しい者」と意識していたのに、いつの間にか「富める者」になっていたのだろうか。あのやせたピアノの先生やこのサッシャや、夏避暑に行って遊んだ土地の子どもたちの眼に、私たちが「富める者」と映っていることに気づいて、いうにいわれない申し訳なさのようなものを感じたのは、スイスへ行ってから二年目ごろかと思う。「日本の恥」にならないようにと、家から召使から運転手つき自動車までそなえられていた「金持ち生活」は、わが家では後にも先にもないことだったのだが、なぜか私はこの点に居心地の悪さを感じ続けた」
 目の前にその人には何の罪もないのに幸せでない人がいる。それが社会のせいであるならば、社会に疑問を持つかもしれないが自分のせいだとは思わない。しかし自分の存在が目の前の人にひけ目や恥ずかしさを感じさせるならば、それはその原因となった自分を申し訳なく思う。本来守られるべきである彼らの人間としての尊厳を自分がおかしてしまったのではないかと思う。「いやそれは自分を卑下しすぎる彼らの被害者意識が悪いのだ。気にすることではない」と言う人もいるかもしれない。しかし自分の身分を恥ずかしく思い小さくなる姿は誰も見たい姿ではない。ましてやそれを誘発しているのが自分だとしたら、やはり申し訳なさを感じるであろう。
 昔自分も痛い思いをしたから、彼女の小さな胸はその痛みに同じものを覚えてチクリとしたのだろう。

 またスイスの自然で彼女の心に深く残った面白い風景がある。
「このころ(寺子屋時代)のことで、今考えてもどうしてだかよくわからないことがある。お転婆な女の子であった私が、夕方になると必ずひとり自転車に乗って坂を降りる習慣があった。
 ぶどう畑が段々になっている山の斜面をくねって行くと、やがてある曲がり角に出て、レマン湖が一望のもとにひろがって見える。鏡のような水面に乱れとぶかもめの群れ。湖のかなたにひときわ高くそびえるアルプスの一峰ダン・デュ・ミデイ。その山の雪の色が夕映えとともに刻々と変わって行くふしぎなすがたをあかずに見守りながら、じっと立ちつくしていた。これが美というものだろうか。美を味わうこともできないと思っていた私は、大自然にとけこみ、一種の畏れにも似た気持ちに満たされていた。いまだに私には審美的感覚が不足していると思っているので、あのときのことは何と表現していいかためらうばかりである。あるいは娘時代(20歳過ぎ)の神秘主義的傾向の前ぶれでもあったのだろうか。
 やがて湖から吹きあげてくる風が寒くなってきて、うしろの山から牛の群れが、首につけた大きな鈴の音をひびかせながら降りてくる。私はため息をつき、夢からさめた者のごとく自転車のハンドルをにぎり、坂道を昇って行くのであった。お天気でさえあればこの行動は毎日くりかえされたのだから、よほど内発的なことではあったのだろう。今となっては強いて解釈や説明はつけたくない」
 いったい山を見て何をしていたのだろうか。美しさに心打たれてずっと眺めていたのだろうか。来る日も来る日も毎日、、。私は山と湖とそれらを見せてくれている自然と、彼女は無言で話をしていたのではないかと思う。その美しさを自分に見せる自然と無言の言葉を交わしていたのではないかと思えてくるのだ。「今となっては強いて解釈や説明はつけたくない」のも当然である。言葉にならないし、言葉にしたらその小さな表現力しかない持たない人間の言葉の価値にまでそれが下がってしまうからだ。
 私たちも小さい頃、変に迷信を信じたり、ちょっとした決まりごとをなぜかずっと守り続けたりと、そんな無邪気なことをした覚えが誰にでもあるのではないだろうか。そんな無邪気さの中に自然を畏敬する心も同居しているように思われる。科学が発達したとしても人間の支配し得る自然は人間の思い込みの中だけのことであって、自然は堂々とやさしくその存在をそのまま現わしている。東洋と西洋の違いは大きいと思うが、そのような情緒を人は決して忘れてはならないと思う。その情緒を失わなければ人はいつでも謙虚になれる。西洋の場合はキリスト教がその役割をも担っているのかもしれないが。
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