いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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神谷美恵子 5 スイス時代 その1

 父多門が国際労働機関の日本政府代表に任命され、任命期間中、家族全員現地で過ごすために1923年7月、スイスのジュネーブに向かう。
 ジュネーブでは「ジャン・ジャック・ルソー研究所」という“寺小屋”のような学校に入れられる。しかしこの寺子屋の自由な雰囲気が彼女にはぴったりだったようだ。
「一つの教室に一年生から六年生までの子どもたちがいて、一人一人別々な勉強をしていた。私にはたくさんのかるたのようなものが渡され、それに描かれているりんごだの、雄鶏だのの絵を、青表紙のノートに写し、同時にカードの裏に書いてあるローマ字の単語を、絵の下に記すように指示された。アルファベットを知っていたのが、せめてもの救いだったが、その単語の読みかたがわからない。la pomme, le coq などを小声で言ってみても、それが「ほんとうの発音」であるかどうかわからない。「ほんとうのことが知りたい!」とじりじりしてくる頃にシャンポ先生がまわって来て教えてくれ、私に復唱させる。このかるた式教授法は毎日つづけられたが、教室内の勉強よりも休み時間に友だちと遊ぶことによって、ずっと早くフランス語を覚えたと思う。みんな別々に勉強していても、午前10時から30分間、近所の公園に遊びに行くことと、皆いっせいに歌を歌う時間だけは例外であった。(中略) 今考えてみても、いったいあの学校の方針は何だったのか、よくわからない。ただ寺子屋方式であったこと、生徒各自がいわば独学していたこと、大きな子も小さな子も、強い子も弱い子も皆一つの教室で学んだことくらいしか思い出せない。(中略‐手元に残っている成績表の評価のし方を見ながら‐) この学校で目標としていたのは学力をつけることよりも、人間づくりの基本と、学ぶことの基礎をとなるものを育てることであったのだろうと思われる。いわゆる勉強よりも、「注意力」とか「従順さ」など一連の徳目を優先させているところをみてもそれがわかる」(『遍歴』より以下省略)
 東京のまだ田舎風情の残る泥んこ道を長ぐつで歩いていた女の子が、ジュネーブでまだ社会の学校制度の歯車に組み込まれずに、個性が何かともわからない年齢に個性をそのまま温存してもらえた環境にいられたということは、幸せなことだったと思う。
「貧富の差、人種の差、健康度の差まで全く無視されて、一人一人の子供が独立人格として扱われ、勉強もほとんど独学で、各自の好奇心と能力に応じて、個人授業に近いことが行われていた」そしてそのいろいろな差は寺子屋では全く問題にならなかった。
 寺子屋を卒業すると、同じ建物の3階にあった「国際学校」の中学部へ進んだ。この学校は国際連盟の創設と共にその各国代表の職員家族のために作られたようである。そのため寺子屋のような地元の子どもたちが通うような雰囲気はまったくなく、いろいろな人種、民族の子どもたちが集まってきていた。ここでだんだんと大人社会の一端が見え隠れし始める。
「ここでは各クラスをフランス語組と英語組とに分けられた。英国人もいたが、それよりもアメリカ人が圧倒的に多く、彼らのために英語組がつくられたと言っても過言ではない。兄と私は一学年の差でフランス語組に属していたが、英仏両陣営の間に多少の摩擦があったことは否めない。大ざっぱにいって、ヨーロッパ人にとってアメリカ人とは何か違和感があるものらしい。その違和感を当時私もヨーロッパ人とともにわかち持っていたのだから、考えればおかしなことだ。(しかし)もっと微妙な差別のあることにある日私は気づいた。黒い髪をした、かわいらしいアリーヌ・メイエルというスイスの少女―と私は思っていたのだが―と仲よくしていたら、青い眼をしたアメリカ娘がそっと私の耳にささやいた。
「だめよ、あの子と親しくしては」
「なぜ?」
「だってあの子ユダヤ人ですもの」
シャーリー・デイヴィスがさも恐ろしいことのように声をひそめていう、その顔を私はふしぎに思って眺めた。まだ12,3歳のアメリカ少女がこんなことをいうのは、その親たちや周囲の社会通念のせいだったのであろう。ともかくこれが「ユダヤ人問題」との最初の出会いだったが、どう考えてもアリーヌはいい子だったので、私たちの友情に変わりはなかった」
 そのような中でも担任のポール・デュプイ先生はフランスの最高学府、高等師範学校の出身で、またそこで地理学を教えていた碩学の人で、高い視野からたくさんのことを教えてもらった。この先生の影響は大きかったという。
「デュプイ先生ほど私たちが質的にも時間的にも多くを教えられた先生はない。あまりにも幼かったために、その先生の「知恵」充分吸収しえなかったことが悔やまれるが、それでも漠然と何か「第一級」のものに接した思いがいつまでも残っている。中学校の子どもがああいう「大物」に教えられるという好運は、めったにないことなのだろう」と記している。本当の意味で知識や知ることに喜びを感じる学問の人の持つ、知に接する喜びに触れたのだろう。そしてこの先生は小さい者に対する愛情にもあふれていたようだ。美恵子がジュネーブを経つときにブラジルのめずらしい蝶の標本の小箱とともにこんな手紙を送っている。
「ジュネーブ、1926年11月1日
 私のいとしいミエコよ
 この小さな蝶を私の思い出に持っていて下さい。あなたの国の最も偉大な芸術家たたちは感情や観念のシンボルを、自然の中から最もよく、ひき出すことのできた人たちです。
 この蝶をあなたにあげるのは、自然そのもののものをあげるわけですが、それはあなたにそうなって欲しいと思うもののシンボルであるからです。シンボルという考えが浮かんだのは、あなたにふさわしいと私が考えたからなのです。羽の表面はしなやかで、深い、光を放つ濃い色。それらの色はいつの日にかあなたを立派な日本女性に育てることでしょう。羽の裏面には、はなやかで快活な図柄が奔放にあそんでいる。それはあなたの若々しい活気、陽気を現わしており、それによって友だち皆と仲よくできたのです。あなたの人生を通じて、知恵の裏側がいつでも快活さでありうるように、一生があなたにとって充分穏やかなものであるように、私は心から祈っています。
 フランスのおじいさんとしてキスさせて下さいね。
                              ポール・デュプイ」
 学問分野の世界で評価と地位を得た博士が、名もなき小さな小さな女の子に期待と可能性をこめて蝶の標本を送り、それをていねいに説明している姿はなんとも微笑ましい。50年以上たった今も大切に保管していると彼女も言っている。
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Author:heban
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