いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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神谷美恵子 4 幼少期

 これから彼女の人生をいくつかに区切って見て行こうと思う。
 まずはスイスのジュネーブへ行くまでの幼少期、正確に言うと小学校4年生1学期までの時期と、両親について簡単に見てみる。

 父、前田多門の実父は大阪心斎橋で商人をしていたが、当たりはずれが大きく生活は安定していなかったようだ。多門は一生懸命勉強し東京帝国大学に入学、そして卒業後内務省に入る。新渡戸稲造が顧問をしていた普連土学園で、成績優秀で総代として卒業する房子に 新渡戸稲造が目を留め、配偶者にと二人の仲を世話をした。房子と結婚した頃は、実家の生活はままならなかったようだ。多門の俸給の半分を大阪の両親と二人の妹に仕送らなければならなかったらしい。
 母の房子の生家は米仏と生糸貿易をして相当な金持ちだったらしいが、父は若死にし、その上父が金を貸していた男に屋敷を放火され全焼してしまった。祖母は5人の子どもを抱えて無一文から生活をしなければいけない羽目になってしまった。しかし祖母はしっかりした人で、再婚することなく子どもを育て上げた。房子は活発で成績のよい子だった。経済的に余裕のない家であったが、富岡市からの給費生としてアメリカのクエーカー教徒が創設した女学校(普連土学園)へ進学した。
 さてこの二人の間に二男三女の子どもが生まれる。美恵子は1914年、兄を一人置き長女として岡山県で生まれるが、父親の仕事の関係ですぐに長崎、そして東京へと転居する。
 東京で小学校に上がる。兄妹たちは成城学園に就学したが、彼女だけは地元の下落合小学校に通った。しかし自分だけ地元の公立小学校に上がったことをすねるでもなく、かえってよかったと言っている。
「当時はまだ田舎という感じのところで、万事がのんびりしていた。私のような神経質な子どもにはピッタリの学校だったのだろう。ろくに勉強しなくてもやさしい先生がかわいがって下さったし、隣には親切な上級生が住んでいて毎朝さそいに来てくれた。大きな麦わら帽子をかぶり、長い草履袋をぶらさげ、友だちと並んで泥んこの道を長ぐつで歩いている写真が一枚残っている。この下ぶくれの小さな女の子の顔を見ると、土から生えたばかりの雑草のような、単純な「生きるよろこび」がそこから発散しているようだ。この泥んこの田舎道こそ、私に最もよく適合していたエレメントだったにちがいない」(『遍歴』より)
 しかしこの生活は1年しか続かず、二年生の時には聖心女子学院小学部に編入する。そこからは少々つらい学校生活に変わる。
「生徒は華族や金持ちや、上流階級の令嬢たちが主で、当時はまだ珍しかった自動車で送り迎えされている者も多かった。気どった「あそばせことば」。厳格な規律。黒い尼僧服をまとった先生たち。――「田舎の学校」から来た泥くさい女の子にとって、変化はあまりに大きかった。階級的な劣等感ともいうべきものに圧倒された。(中略)この劣等生にとって何よりつらい「苦痛の儀式」は毎週月曜日、生徒めいめいが白い長手袋をはめて、きちんとプレスをした紺の制服を着て、しずしずと列を組んで礼拝堂へ行くことだった。(中略)やがて担任の先生が一人ずつ生徒の名前を呼びあげる。呼ばれた者は静かに立って聖堂の真中の通路を通り、「校長様」と呼ばれる最高位の尼僧の前に立つ。校長様は、その生徒の先週間の成績を記した巻ものを渡して下さる。各学科目に甲乙丙丁がつけられるわけだが、私はめったに甲の評価を与えられたことはなかった。これも当然私の劣等感をつよめ、私をますます内気にした。ある日のこと、その恐ろしい月曜日なのに、私は白手袋を持ってくるのを忘れていたことに気がついた。どうしよう。相談する先生も友人もまだなかった。融通のきかない、臆病な私としては、みっともない方法をとらざるを得なかった。同級生が礼拝に行っている間、自分の机の下にちぢこまって隠れていたのである。こういう自分はいまだに心のどこかに住んでいるような気がする」(『遍歴』より)
 小学校4年の1学期を終えるまでこの萎縮した学校生活を続けていた。そしてその後、解放感と自由と成長をもたらしたといわれるスイスでの生活が始まるのである。
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Author:heban
東京都出身
43歳

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