いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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神谷美恵子 1 序文

 「神谷美恵子とはどういう人物か」という問いにそう簡単には答えられない。
なぜならそれほど広く深く、愛に満ちた世界を一人の人間の精神の中に宿していた人は稀だからである。
 名著「生きがいについて」(1966年初版)が出版された5年後に、より思索を深めて「生きがい」について語った本がある。「人間を見つめて」である。その中から一文を抜粋する。

 苦しみというものは、したがって、人間が初めて人間の生の条件を自覚する契機なのだと思う。苦しみや挫折をこういうふうに生かすことができれば、これもまた大きな恩恵となる。
「人間を越えるもの」が宇宙全体を支えるものだとすれば、そのものから人間に注がれる「配慮」を、「愛」とか「慈悲」とか人間的な言葉で表現するのも、ずいぶんこれを矮小化したことかも知れない。しかし人間はほかにことばを知らないのだ。ということは、ほんとうにはその実体が私たちにはごくおぼろげにしかわからない、ということを意味する。その認識能力が、私たちのあたまには、まったくそなわっていないのだ。
 しかし、まぎれもないことは、人間がみな「愛へのかわき」を持っていることである。その大いなる実体がわからないにせよ、人間を越えたものの絶対的な愛を信じることが、このかわきをみたすのに十分であることを、昔から古今東西の多くの偉大な人や無名な人びとが証明してきた。このかわきがみたされてこそ、初めて人間の心はいのちにみたされ、それが外にもあふれ出ずにはいない。―中略―
 精神科医というものは、この問題にたえず直面しないではいられない。いったい、フロイドの精神分析や、ビンスワンガーの現存在分析で、解決できることであろうか。理論というものは分析や説明は一応できても、ほんとうの解決策にはならない。巧妙な技術だけでも足りない。現場の私たちに必要なのは知識や技術とともに、これを生かす正しい愛の力なのだ。
 私のまわりには悩みや苦しみがあふれている。らいや精神病にかかった人、およびその肉親の苦しみは、多くは一生つづいて行く。また、一見はなやかな生活をしている人でも、絶海の孤島にいるような孤独に心を凍らせている人のあることを私は知っている。この人たちに対して、いったい精神医学が何ほどのことができるというのだろう。人間の知恵も愛もあまりにも不純で弱い。少なくとも私は、たった一人の人間でさえ、真の意味でさいごまで愛し通せると断言する勇気はない。通り一ぺんの愛情でさえ注ぎうる相手は十指にみたないであろう。
 無力感にうちひしがれるとき、私は好んで山の稜線に目をあげる。そこに一本または数本の木が立っていればなおさらよい。木々の間を通してみえる空は神秘的だ。その向こうには何が――との思いをさそう。
 ことに夕やけの時など、山が次第に夕もやの藍に沈んでゆくと、稜線に立つ枝がくっきりとすかし模様をえがき、それを通して、この世ならぬ金色の光がまぶしく目を射る。地上にどんな暗いものが満ちていようとも、あそこにはまだ未知なもの、未来と永遠に属する世界があると理屈なしに思われて、心に灯がともる。非合理な「超越」への思慕も昔から人の心を支えてきたのだ。この思慕がみたされるとき、初めて心に力が注がれる。―中略―
 人は生きがいを「何かすること」に求めて探しまわる。しかし何かをする以前に、まず人間としての生を感謝とよろこびのうちに謙虚にうけとめる「存在のしかた」、つまり「ありかた」がたいせつに思える。それは何も力んで、修養して自分のものにする性質のものでなく、前章にのべた「愛の自覚」から自然に流れ出るものであると思う。
 まずこの泉を掘りあてれば、私たちは「何かすること」がなくても、何もすることができないような病の床にあっても、感謝して安らうことができる。死に直面しても、死は苦しみにみちた人生から大きな世界への解放として展望することができる。もし銀河系の中に、天体のあいだに、自由に飛翔しうる存在となれるならば、それはすばらしく雄大なことではなかろうか。

 これは彼女が家の書斎で多くの本を読み、そして人の苦悩を思って書いた文句ではない。自分の足で自らハンセン病の隔離施設を訪ね、精神科医として汗を流して書いた文句なのだ。
 私は行間に、涙が流れ出てくるほど彼女の暖かい気持ちと人に対する尊敬の念を感じずにはいられない。
 
 これから何回かにわたって彼女の著作を通し、その思想、生き方等を紹介していこうと思う。
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コメント:
はじめまして
はじめまして
hebanさん? でよろしいのでしょうか?

私もズ~ット良心について考えております。

このブログに触発されて「生きがいについて」を読み始めました。

また、
「エラスムスとルターの自由意志論争」興味深く読ませていただきました。

この論文は原理を聞かれた後に書かれたのでしょうか?
ふと質問したくなりました。

私は、いま良心を論じる上での「枠組み」をどうすべきか悩んでいます。
論文のなかで、三つの段階(領域)のくだりがありますが、とても参考になりました。

また、hebanさんが今統一教会とどのような関係であるのか分かりませんが、一つ聞いてみたい、一緒に考えてほしいと思うことがあります。
それは、原理やみ言を知る人の良心とは上記のどの領域にあてはまるのか?という素朴な疑問です。


このようなブログはブログ村にもあまりないのでとても嬉しく思います。

私は、良心の赴くままに生きられる世界が統一教会にあると思って献身して来ましたが、実際はその中では、そのごとく生きられないジレンマをはらんでいます。

国を建てるという現実的な摂理のために、良心を捨て捻じ曲げてやってこなければならなかった日本の教会の是非と、これからの我々(食口)の生き方に対して考えるとき「良心」について深く考えなければならないと思っています。

次の記事 楽しみにしています。

2011/11/11(金) 06:42 | URL | サライ #-[ 編集]
こちらこそ、はじめまして
長い拙い文章を読んでくださってありがとうございます。もっとわかりやすく書くことはできなかったのかと、今読み返すと、本人ですらわかりにくい文章に文句の一つでも言いたくなってしまいます。それを読んでいただけたとは本当に光栄です。

私は、良心はそれぞれの宗教の中で育んでいくものだと思っています。そしてその中心になるものが信仰でなければいけないと思います。ですので、統一原理がどの段階、どの領域にあるかということではなく、それを知り信仰を持った人がどの段階に今いるか、そしてそれをどう育むかが問題なのだと思います。統一原理を知っているから原理で言う成約信徒だとは言えないと考えます。いろいろな段階の人が原理を聞き、そして良心を育んでいく、そういう意味ではほかの宗教と同じです。

私は統一原理に触れてから卒論を書きました。3段階の成長過程があるというのはとても画期的な見解です。
ルターのような信仰を持てる人は多くはないと思います。人間の自己中心性に絶望しきった、研ぎ澄まされた良心を持った人です。自分が動機となることすべてを否定して、神の恩寵を望み、神の全き対象に立って生きようとする人です。それが新約の信仰であるとするならば、その上の成約の信仰とはいったいどんな世界であるのか。私には想像するしかできない世界です。

教会では旧約の信仰を行義の信仰としますが、それは決して軽んじられるものではなく、かえってその範囲を超えられない人が大半ではないかと考えます。人間の自己中心性の葛藤を超えていけるのが、罪との葛藤であり、その結果の新生であるならば、自己中心性を超えるだけの信仰を持つというのは並大抵のことではないからです。これは統一教会に限ることではなく、すべての宗教に言えることだと思います。もちろん、言葉は違いますが。

統一食口の苦悩は求められるものと自分の信仰の差による苦しみだと思います。そしてその差を埋めるために、方便と手段が是とされ、それを称賛するような空気がそれをもっと悪化させてしまった、と考えます。

私は教会を離れましたが、いろいろな宗教に触れながら、結局また戻ってきました。
私は良心ということについてもっと研究されるべきだし、それこそ大学で、一つの科目として教えて余りある内容だと思っています。
それは統一原理から見たということでなく、もっと普遍的なところから出発していきたいと思っています。

2011/11/12(土) 14:05 | URL | heban #-[ 編集]
No title
hebanさん 返信ありがとうございます

>私は良心ということについてもっと研究されるべきだし、それこそ大学で、一つの科目として教えて余りある内容だと思っています。
それは統一原理から見たということでなく、もっと普遍的なところから出発していきたいと思っています。

大賛成です。

どこに書いてあったか?拾い読みしていたのではきりしないのですが、
「良心の限界」という言葉がズーット頭から離れません。

私が信仰の道に入ったのも、この「良心の限界」を感じていたからだなと、改めて感じさせられます。

二十歳の頃、海外青年協力隊に興味を持ち資料を集めたり説明会に参加したり、また手記を読んだりしましたが、結局真のボランティア精神ではなく、自己中心、自己満足の次元からは抜け出していないんだなと感じました、商業的な匂いさえ感じ、参加をやめました。

その後、いわゆるバックパッカーのスタイルでインドを一人旅しました。物乞いをする人々に常に声をかけられ、現地の人との交流のためにと用意していった日本からのお土産も一日で底をつき、お金も旅費意外は完全に底をつきました。
あまりにも多い路上生活者、わずかな施しが砂漠にコップ一杯の水を撒くような無力感と、「俺は何をやっているんだろう?」という自己嫌悪に陥りました。

まさに「良心の限界」を肌で感じていたのです。

日本に帰って来てしばらくして、「難民救援の為にハンカチ買ってください!」と、天使が訪問してきました(笑)
その時、インドでの経験や、ボランティアについて熱く語りました。
その後もその姉妹と交流を持つようになり、伝道されたのですが、印象に残っている彼女の言葉が
「貧しい人を助ける前にやることがある」でした

お父様の詩「栄光の王冠」に詠われている苦悩が良心の限界の叫びであり、イエス様が説かれた愛の世界も同様だと思います。

貧しく悲惨な姿の人を助けよ!と良心は叫びますが、物質的なものでは即、限界が来ます。

神に対する献身は、自分の財産や命、時間までも全て捧げつくした一つの限界を超えた位置だろうと思います。

しかし、そのような生活をしていても目の前に一切れの「パン」があるとき、それをどうするか?多くの選択肢や理屈や葛藤を生み出すことを経験的に知っています。

「あなたのパンを水の上に投げよ」 伝道の書11/1

「良心の限界」について更に掘り下げた記事でも書いていただければ幸いです。

2011/11/13(日) 04:36 | URL | サライ #xxjgbHNw[ 編集]
ご提案ありがとうございます
貴重なご体験をされていらっしゃるのですね。

おっしゃるとおり、実生活の中での自己との葛藤は真摯に向かい合えばあうほどつらいものであると思います。

こんな自分ではいたくないという思いと実際の自分自身との狭間でいやな思いばかりします。(これは私の考えなので他の人にも当てはまるかどうかはわかりません)
本当の醜い自分から出発することを覚悟すれば、どうにか前には進めるかなと感じています。

ご指摘のような課題にも、一度ゆっくり考えてみたいと思います。

サライさんのように意見してくださる方がいらっしゃるのは、微力ながらブログを立ち上げ思うことを発信する身としては、本当に心強く励まされる思いです。
ありがとうございます。
2011/11/14(月) 20:31 | URL | heban #-[ 編集]
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Author:heban
東京都出身
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