いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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まとめ その2

 今度はルターの罪意識を中心に彼の信仰観を見てみたいと思います。
 ルターの回顧録に次のような一文があります。
「はじめローマ人への手紙第一章を読んで≪神の義は、その福音の中に啓示され≫とあるのをみて、≪神の義≫という語を憎んだ。なぜなら私はすべての教会学者などのならわしに従ってこれを哲学的に、すなわち神がこれによって義(ただ)しくあり、そして罪人と義しくない者とを罰するところの所謂形相的(for malem)もしくは能動的(activam)の義として解するように教えられていたからである…最後に神の慈悲によって日夜思いわずらった後私の注意が≪神の義は、その福音の中に啓示され…これは、信仰による義人は生きる、と書いてあるとおりである≫という語の[内的な]関連に向けられるに及んで、私は神の義を、義人が賜物によって、したがって信仰によって生きることを得るその義のこととして解しはじめ、これが福音によって神の義が顕われるという意であり、すなわち義人は信仰によって生きるとしるされているように恵み深い神が信仰によって義たらしめてくださる場合の受動的な義なのであるということを悟り識ることができたのである」
 これはルターの新生体験である“塔の体験”の記述です。ルターの修道院生活は罪との熾烈な闘いの生活でした。修道士として非の打ちどころのない生活をしているのに、彼は罪人としての自分がどんな償いの“行ない”をしても神に罰せられる罪人でしかないという不安から逃れることができませんでした。
 人間は無意識のうちに神を自己の幸福のために用います。「人間を愛し、恵み、赦し、救う神であるがゆえにこそ人間は神を信ずる。信ずる時、信ずることへの代償的恩恵がなければならぬ。神は人間の幸福に仕えるために存在するのである。人間が神のために存在するのではなく、神が人間のために存在するのであり、そして幸福ゆえに神を信ずる。幸福こそいわば人間の神なのである。幸福を求めての神への信仰は、幸福が見事に裏切られた時神を棄てることもしうる」ルターはこの自己中心愛の中に自分の罪を見たのでしょう。神の前に善き行ないをしようとするのもよくよく自分を省(かえり)みてみると、その根底にあるのは神のためにではなく自分の満足のためにであったと思ったに違いありません。ちょうどイエスが律法学者やパリサイ人に向って言った「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯の外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず杯の内側をきよめるがよい。そうすれば外側もきよくなるであろう」という聖書の言葉のごとく、ルター自身、外側をきよめようとすればするほど、内側の醜さに呻吟したのでしょう。自分の意識内のことにおいては自分の肉に鞭打ちながらも善なることをなしたであろうに、しかし動機となると人間の力の及ぶところではなかったのです。まさしく“何ものか”によって贈与されたものを受けとるしかなく、そしてその“何ものか”はまさに悪魔であり、我々は罪の奴隷となっているというわけです。
「人間の意志は、両者(神と悪魔)の間に、いわば馬車馬のように、おかれている…いずれの馭者の方へ走り、いずれの馭者を求めるかを選択する力は、彼にはないのである」
 ルターののっぴきならない罪に拘束された自らへの嘆きです。神に御されれば何の問題も生じないであろうに、現実は一方的に悪魔に御されそれを阻止しうる手段はないのです。
 ではルターにとっての自由とは何だったのでしょうか。行為の選択ということにはもうすでに自らの自由を見い出せなくなってしまった彼は、その関心のすべては人間の動機にへと向かっていきます。その中で罪に捕らえれている自らの心が罪から解放されること、それがルターにとっての最大の自由でありました。それはこの世における名誉や地位、見栄もろもろのものへの固執からの解放であり、偽善に対する不安からの解放であり、絶対的善なる神に満たされているという安心感でもあったのです。
『キリスト者の自由』の冒頭における二つの命題、
 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない
 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する
 これはルターの自由の概念を端的に表しています。現実生活における外的、環境的自由、言うならば行為、営みの選択の自由はさほど重要ではない、否、何人に従属する僕でも然り。しかし精神はこの世の何ものにも従属してはならず、罪から来る誘惑に支配されてはいけないのです。動機から罪が抜けなければ、動機が清くなければ善とは言えないのです。ルターはこの解放感を“塔の体験”から得ました。(本文では新生体験についても説明を加えましたがここでは省きます)
 こうして見てみると、罪意識も「全き善なる方、清き方」の前に類まれなる敏感さを有する良心の働きとして生じているように思えます。
 エラスムスもローマカトリックの絶大なる勢力下で、自分の信じるところを述べたのですから、生きた良心を持った人物と言ってよいでしょう。しかしその彼を不快にさせるほどの信仰批判をしたルターは時代の傑出者です。稀代の良心の持ち主と言えるでしょう。
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Author:heban
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