いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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まとめ その1

 もともとエラスムスはローマカトリックを改革したいという立場ですが、ルターほどの反教皇という立場ではありません。彼は教皇側からの要求でルター批判書『評論・自由意志』を書きます。それがこの論争の始まりになります。ルターはエラスムスに答える形で『奴隷的意志について』という本を書きます。この本でルターはけちょんけちょんにエラスムスを批判するのです。
 エラスムスはローマカトリックの腐敗、特に贖宥状に対して批判的ですが、だからといって教皇自体を否定しているのではありません。しかしルターは信仰の根拠は聖書にあるべきで教皇にあるべきでないと教皇の否定をもします。そして人間のわざからは何の善も生まれないと主張するのです。人間の意志で、もしくは考えでは、善を行なうことはできないと人間の自由意志(人間が自発的に善と悪を見分け行なう)を完全否定するのです。
 そこでエラスムスは人間は自分で善と悪を見分けることができ、それを行なう、行なわないという自由な意志を持っていると主張し、いろいろな聖書の聖句を使ってそれを証明しようとします。もちろん人間は罪人なので、その選択が正しいとは限らないけれど、しかし神さまはその意志を人間に与えられたと言います。
 たとえば、イザヤ書1章19節、20節には「もし、あなたがたが快く従うなら、地の善き物を食べることができる。しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎでほろばされる」、イザヤ書21章12節「・・・もしあなたがたが聞こうと思うならば聞きなさい、また来なさい」というような聖句は人々にどっちを選ぶのか?こっちを選ばないとあなたは滅ぼされるとまで言われながら、人に善を選ぶことを促している。こういう聖句は聖書の中に数え切れないほどたくさんあるとエラスムスは言います。そしてこうやって人が神の願いはなんだろうか、正しいことは何だろうかと考えながら善を選ぶと、神様はそれに褒美をくださる。だから人間の倫理観や道徳観が成立するのだと主張します。
 しかし彼はここで正直に「神さまはいつも公平に報酬をくれるわけではない。ある人においては悪行には目をつぶって小さな善行に大きな褒美が与えられ、ある人においては善行には目をつぶって小さな悪行に大きな刑罰が与えられる」というこの世の不平等、不条理を指摘します。けれども彼は、この不平等、不条理に「神の知恵や知識の深さを人間がどうこう言うものではない。人間の域を超えていることは、浅はかな知恵で詮索すべきではない。所詮人間にはわからないのだから」と言うのです。
 
 さてルターはエラスムスとは反対に人間は善悪を選ぶことができないと言います。それは人類始祖より罪の血統にあって、その心は悪魔に捕らえられて奴隷とされている。それゆえに神の恩恵がなければ善を選び行なうことはできないと言います。ですから簡単に言うと、荷馬車の馬のようなものです。荷台で運転しているのが神さまであれば馬はよい方向に行くけれども、それが悪魔であれば馬は悪い方向に行く。私たちはこの荷馬車の馬の立場なのです。それもいつもは悪魔に操られているけれども神の恩寵を受けた時だけ善を選び行なうことができるのです。もちろん日常生活のお金を使うとか何かを使うとか、そういうことにおいて人間は自由に使うことはできますが、神さまに関すること、救い滅びの事がらについて、簡単に言うと善悪の選択については、人間に全く自由意志はないと言うのです。
 エラスムスは不条理の神について述べますが、ルターは決定論へと話を発展させ不条理の神を消化してしまいます。この被造物は神さまが造ったのだからそれを神の働きによって動かし、それぞれ神が与えた能力によってその人間を用いることに何の矛盾があるのかというわけです。聖句でこれを表現しているのはローマ人への手紙9章15節以降の文章です。「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。・・・陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」
 ルターは人間の自律性を完全に否定してすべてを神に帰しています。それは人間が罪の奴隷的意志によって律法(人間がすべき一般的道理)をなそうとしているからです。ですから彼から見れば人間が善を選択し行なえるのはただ神さまの恩恵によってのみであり、人間の功績によるものではないのです。

 ここでヤスパースの言葉を引用させてもらいます。二人の自由意志についての考え方、特にルターがなぜここまで人間の意志を否定するのかが見えてきます。
「われわれの行為の自由の中には次のような根本経験がある。私は意志するが、しかし私は、私の意欲を意志することができない。私は私がそこから意志するものを根本的に知らざるを得ないが、私にはこの根本を生み出すことができず、決断しうるという能力を生み出すことはできない…幸福な気質や、人好きのする素質やそのほか自然に与えられたものは、何ら確固たる地盤でもない。だから私は、自分の意志においても、自由においても、また愛においても、端的に自由なのではない。私が私に贈与されたものとして、私は自由であることができ、私自身になることができる」
 簡単に言い直すと、何か行動するとき、するかしないかの決定は私が自由にできるけれども、行動を発想するときの動機は私が自由にすることができないということです。無意識に浮かんでくる意欲、感情、思いを自分で選択することはできません。ルターの言っている奴隷的意志とはこの動機のことを言っています。人は善いことを行っているようであるけれどその心の内は、利己心、欲心、自己顕示欲等々で行なわれているというのです。そして神さまの恩寵をもらったときに心が正され、善なる選択と行ないができるというわけです。
 しかしここで、「私たちはそんなに心根がくさっているのだろうか」と思われるかと思います。あとでルターがどんな修道生活をしていたのかについて説明をしようと思いますが、まず良心の深さの違いとして捉えるとどうなるだろうかと考えてみます。これはルター自身が良心の深さを三段階に分けているのですが、それを要約します。
 第一段階は社会的習俗の範囲です。伝統や社会的掟など、言い換えれば法律や社会のマナーと言ったところでしょうか。この深さをクリアしている良心はこれを守ろうとします。第二段階は道徳、倫理の範囲です。これはよく言う「良心の呵責」を感じる範囲です。必ず守らなければいけないものではありませんが、それをしないと自分の心が許さない善悪基準の範囲です。第三段階は人間が日常的に堕落した状態をたえず超えようと促す心の働きです。これは罪意識の有無によると言えるでしょう。
 これにそって見てみると、当時ローマカトリックが西欧世界を支配していた中で、贖宥状に反対の意を唱えていたエラスムスは第二段階の領域の人であることがわかります。そしてルターは強い罪意識に裏打ちされた確固たる信仰からいろいろなことを発言していますので、第三段階の領域の人であることがわかると思います。

 さてもう一つ浮かんでくる疑問はルターが言うように罪意識とは本当に良心の延長線上にあるものなのかということです。
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