いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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「二人の老人」にみる良心 2

 この「二人の老人」の話を読みながら、「私はどう考えてもエフィームじいさんだよな」と思ってしまうのです。エリセイじいさんのような心の自由さが私にはないと感じられてしまうのです。
 エリセイじいさんは、エルサレム巡礼という一生に一度できるかできないかの大事をしようとしているときに、村人たちからも棄てられたような一家のために、自分の時間とお金をすべて使ってしまうのです。聖地巡礼という信仰者であれば誰もが一度はしたいであろう、自分の夢と引き換えにです。エリセイじいさんのあの家での最後晩は相当悩んだだろうなと思います。しかし夢の中で子供たちに足にしがみつかれた時、エルサレム巡礼はいっぺんに色あせたことでしょう。そして子供たちの命やこの家族の命が目に見えるように感じられたのだと思います。
 エリセイじいさんの良心の闘いは、エルサレム巡礼という自分の信仰の証と名もなき家族の命の間で行なわれました。これは頭の中での理念の闘いではありません。博愛主義や人類愛の実現という言葉を実践したのではなく、目の前の命を心からいとおしく思い、今この人たちを助けなくて何が神への信仰であろうかと心が揺さぶられたのです。見知らぬ人でもその人に対する親しみ、人間性に対する信頼がエリセイじいさんの中には力強く息づいていました。
 一方、エフィームじいさんは念願のエルサレムに着きます。そして巡礼をし慣れている旅僧にも会いいろいろな助言をもらいます。しかしこの旅僧は巡礼をし慣れた分だけずる賢さもあり、自分は献金をせずエフィームじいさんにだけ献金をさせて、自分は同行者としてその恵みにあずかろうとしていたようです。この旅僧が本当にお金をなくしたのかどうかはわかりません。それほど悪い人ではないけれど、まっ正直な人でもないようです。エフィームじいさんはこの旅僧が気になってしかたがないのです。最初の船賃のやりとりから少し警戒し始めたようですが、エフィームじいさん自身があまり人を信じるタイプではないようです。賢く無駄や損をしないように合理的に物事を進めていくタイプなのでしょう。彼からすれば旅僧のような得体の知れない人はあまり親しくしたくないでしょう。しかしそんなことばかり、、、損をしないこと、無駄をしないこと、だまされないことばかりを気にして、一生に一度のエルサレム巡礼を雑念で無駄にしてしまうのです。
 この短編物語は次の文章で終わります。エフィームじいさんがエリセイじいさんに彼が助けた家族の話をしようとしたとき、エリセイじいさんはそれを避けました。そして彼はその時こう悟ったとあります。
「この世では、だれでもが愛とよい行ないとによって、死ぬまで自分のつとめをはたさなくてはならない、それが神さまのおいいつけなのだと」
 神さまはエリセイじいさんの行ないをよしとし、エフィームじいさんの行ないはよしとしたのかどうかわかりません。彼の足らなかったものは何かと言葉で表現するのは簡単です。たとえば、日々の外的なことに気を取られすぎて本質的なことを見ないこと。また他人に迷惑をかけない範囲で自分の利益を最優先すること。そしてもう少し極言すると自分中心にすべてを考えること。と言えるでしょうか。
 私は先回書いたルターとエラスムスを思い出すのです。エリセイじいさんは仲間からも見放された見知らぬ人を助けるのですが、そうせざるを得ない気持ちになるのです。まさしく良心の叫びでそうなってしまったのです。信仰者としての行動より人に見られないところでの心の充足を選んだのでした。そこにルターの影を見るのです。もちろん、信仰者は「人を助けることよりも聖地巡礼が大事だと考える」ということではありません。しかしそういう選択をすることの難しさがそこにはあると思います。「自分でなくても誰かがしてくれるだろう」、「自分がしたところで一時的な助けにしかならないかもしれない」などの自分の良心に対するいいわけです。それをものともしない良心の強さに心の自由を感じます。
 一方エフィームじいさんは決して悪い人ではありません。かえって良い人です。信頼も厚く人をだまさない善人です。しかし心の中のことまでには意識がなかなか行かないのです。心が自由でないのです。この心の不自由さが私にはよくわかります。私もその不自由さの中にいるからです。それゆえエリセイじいさんの心の自由さがより輝いて見えるのです。

 聖書に出てくるマリヤとマルタの話も同じですね。
『イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足元にすわって、み言に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんとも思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ。あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、なくてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。』(ルカ福音書10章38節~41節)

 ふむ、、、、本来「心」とは、こんなに自由なのですね。
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Author:heban
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