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エラスムスとルターの自由意志論争 8

   2、ルターの信仰的見地

 ルターにおいてはまず彼の義認論から見てみたい。彼の晩年の自伝的回顧の一節に次のような証言がある。
――はじめローマ人への手紙第一章を読んで≪神の義は、その福音の中に啓示され≫とあるのをみて、≪神の義≫という語を憎んだ。なぜなら私はすべての教会学者などのならわしに従ってこれを哲学的に、すなわち神がこれによって義(ただ)しくあり、そして罪人と義しくない者とを罰するところの所謂形相的(for malem)もしくは能動的(activam)の義として解するように教えられていたからである…最後に神の慈悲によって日夜思いわずらった後私の注意が≪神の義は、その福音の中に啓示され…これは、信仰による義人は生きる、と書いてあるとおりである≫という語の[内的な]関連に向けられるに及んで、私は神の義を、義人が賜物によって、したがって信仰によって生きることを得るその義のこととして解しはじめ、これが福音によって神の義が顕われるという意であり、すなわち義人は信仰によって生きるとしるされているように恵み深い神が信仰によって義たらしめてくださる場合の受動的な義なのであるということを悟り識ることができたのである(21)――
これはかの有名な“塔の体験”の記述である。ルターの修道院生活は罪との熾烈な闘いの生活であり、罪人としての自分がどんな償いの行ないをしても神に罰せられる罪人でしかないという不安から逃れることができず、毎日が苦しい精神的死闘の連続であった。そのような日々の中で神の恩恵がルターに注がれたのである。
 この証言の中で明らかに彼の義認論が転換されているのがわかる。「能動的義」から「受動的義」へと転換された。これはアウグスチヌスが放蕩生活から180度転換されて回心した精神の転換と同類のもの、すなわち新生体験と言われるものである。今まで罪の奴隷の中にあった人間が神の恩恵によりみ霊が降りてきてキリストの十字架による罪の贖いの体験がなされるわけである。
 これを少し詳しく見てみよう。“能動的義”とは自己から発したものを神の審判に委ね義とされることと思われる。人間の無意識と意識の境の壁から、意識側のできごとについてなされる神の審判、これはまさしく自由意志に対する義であり律法的義のことであると思われる。律法を守った行為によって与えられる義である。ルターは律法の言葉を守り修道士として完全に一点の非もない信仰生活をしていた。しかし自分自身の動機を見る時にはたしてこれが神の前に善と言えるものであろうか。すべてが偽善であり自己中心的な動機からなしているのではないだろうか。これは奴隷的意志論で執拗なほどに律法を否定した根拠となった部分である。
 動機はすでに自分の責任においてコントロールできる範疇のものでなく、“何ものか”によって贈与されるものであるわけで、本人の意志とはまったく関係ないところで決定されてしまうのである。そしてなおかつサタンの支配下にある我々は、常に罪ゆえにサタンからの贈与を受けているのである。これに対して神の刑罰が下るのならばそれこそ“不条理なる神”であり、暴君の下にいる無力な一市民として希望なき生を営むしかない者となってしまう。しかしこの動機における義は意識内を責任分担とする能動的義の範囲を逸脱している。それゆえに義なるものか不義なるものなのかわからないのである。不安とならざるを得ない。「神の前にたっては全く平安なき良心を抱いてみずからを罪人としてかえりみ、私みずからの贖いの行ないによって神の宥和を得られるという信頼にどうしても達し得なかったからである(22)」動機における人間の罪性を痛いほどに実感しながらもそれをどうすることもできず、ジレンマに陥った。今までの義認論では解決できない問題だったのである。能動的義は律法を守ることで善しとされる義であるため、 動機の善し悪しを考えない者でも感ずることはできる。しかし受動的義に至ってはそうはいかない。
 受動的義によって生きるルターは新生による罪の購いを次のように言っている。「キリストとたましいとは一体となり従ってまた両者各々の所有も幸運も不運、あらゆるものが共有され、キリストの所有したもうものは信仰あるたましいの有となり、たましいの所有するものがキリストのものとなる。そこでキリストのもっておられたすべての善きものと祝福とはたましいに所属することになり、同様にたましいに属していたすべての不徳と罪過とはキリストに託せられる。かくて今やあり難い交換と取り合いとが始まるわけである(23)」この体験を通して人間から罪が削除される。無意識下の動機からこの神の恩恵によって罪が取り払われるのである。サタンから贈与された動機がこのキリストとの婚姻によって神からの贈与にかわる。今まで散々苦しんだ自己中心的な動機、偽善を生み出す動機から解放されるのである。その代わりに神の愛に満ち、喜びに満ち、そして善に満ちたる動機が与えられるのである。今まで罪の奴隷となり動機次元の自由の全くなかった者が、罪の束縛から解放されそれと同時に義とされたのである。能動的義は人間の自由意志によるわざに相対するものであったが、この受動的義は人間の意志では及ばない所で一方的に神の恩恵によって義とするものである。人間としては何をなすこともできない。ただ信仰のみである。であるから人間からは確かに受動的なものであり神の一方的な恩恵である。イエス・キリストという媒介を通し、その十字架によって自分の罪が贖われているのである。これはまさしく新約の世界の福音的義といえるであろう。
 さてエラスムスの信仰手段、神へのアプローチのしかたは哲学的であったが、ルターのはというと、この義認論の論述でも明らかなように体験を中心とした信仰の確立、その時その時の体験、自分の信仰の土台として神に近づこうとしている、体験的信仰である。それゆえにエラスムスに批判された“逆説の神学”が出て来るのであろう。というのは、今持っている信仰基準の体験を説明しようとする時に、それを理論的に述べようとすると演繹的でなく帰納的なってしまう。それゆえに逆説的になるのであろう。先の自由意志の項目のところでルターの信仰観は福音的、新約的と述べたが、この彼の義認論においてそれがより明らかになったのではないかと思う。ルターは「自由意志」「奴隷的意志」について福音世界の次元から体験的に述べているのである。

 注(21)今井晋「ルター」『人類の知的遺産』26、講談社、1982年、81ページ
  (22)上に同じ
  (23)ルター『キリスト者の自由』23ページ、その前後にも次のような記述がある。「信仰は単にたましいが神的な言と等しくなり、すべての恩恵にみち自由に且つ祝福される(救われる)ようにするばかりでなく、更にたましいとして、あたかも新婦をその新郎にめ合わすようにキリストといったいならしめる…かくてたましいはひとえにその結納品すなわち信仰の故に己があらゆる罪過から潔められ、釈放され自由にされて、新郎であるキリストの永遠の義を恵み与えられる。かように富裕な高貴な義なる新郎キリストが貧しい卑しい悪い賎婦を娶って、あらゆる悪からこれを解放し、あらゆる善きものをもってこれを飾りたもうのだとしたら、それは何とすばらしい取り引き(家計)ではないか。その際に罪がたましいを滅びに陥れるということはありえない。なぜなら罪は今やキリストの負いたもうところとなり、キリストのうちに呑まれたもうからである」
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