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エラスムスとルターの自由意志論争 7

  b.信仰の手段と義
  1、エラスムスの信仰的見地

 エラスムスの思想はキリスト教的ヒューマニズム、またはキリスト教哲学者等、いろいろな名称がつけられその位置づけも様々である。彼のヒューマニスティックな部分を強調する者は彼を現代の自由思想家の先駆者、または啓蒙主義時代の祖と見なす。しかしこれに耐え得ない者たちは(13)、彼を「神学者の王」と称する。
彼のこのような名称は宗教であるキリスト教と哲学であるプラトン主義とを合一したところにある。キリスト教と古典文化を組み合わせキリスト教を哲学によって明らかにしようとした。「哲学者とは弁証論や物理学に通じている者ではなくて、偽りの空想を捨てて、清純な心で真と善とを追求する者である。哲学者とキリスト者とは、名称は異なっているが、本質は同じである(14)」これはエラスムスの言葉である。哲学という手段によって宗教を解明していく。こういう意味においては、すなわち方法論的意味において彼の信仰形態は哲学的であったといえる。
 また同時に、ここに彼のヒューマニスティックな面を見る。ふつう「ヒューマニズム」というと、人間性を擁護しその偉大さを追求して時には神や自然を排除してまでも、自己を自立的な自由の主体者であると一般的にはそう認識している。これがエラスムスにあてはまらないことはもちろんである。彼は実際敬虔なキリスト者であったし、その若い頃には「共同生活兄弟団」と呼ばれる団体の中で修道士風の教育を受けている。それゆえか神秘主義的一面も持っている。
 自由意志論で中庸を節度を尊び争いごとをきらうエラスムスが絶対に譲ることのできなかった一点は、人間の自律性である。人間は何ごとかをなしうる力を持っており、それがたとえ主原因でなく第二次的原因であるとしてもそれを抹殺することはできず、人間の自律性は認められなければならない。エラスムスが守り抜いたこの人間の自律性に、ヒューマニズムの祖といわれれるものを見い出すのであるが、はたしてそうであろうか。「自由意志について」のところで論述したが、エラスムスのいう自由意志は認められるべきものであって何も新しい概念、ましてや人本主義のように不必要に人間の自主性を述べているわけではないのである。もしこの点をとってエラスムスをヒューマニスティックな人物だと称したならば、律法をきちんと守っているキリスト者全員が、ヒューマニズムを有した人々となってしまう。彼のヒューマニスティックな要素を見い出すのはここではなく、キリスト教を哲学的に考察しようとした姿勢に見られるのである。これに関連して森有正はその著におもしろいことを書いている。「このようにルターにおいては自己の意志を束縛し、また自己がそれに対して責任をもち、自己の自由な働きの結果を保障する神が存在したのであるが、ヒューマニストであるエラスムスにとっては、その本質において、彼がみずからそれに対して責任をもちそれによって束縛されるべき他のもの、すなわち神はなかったのである。これは彼がカトリック教徒として神を信仰していたことと少しも矛盾しない。と同時に彼は自分の欲する自由を実現し、その結果を保障する手段方法をも持たなかったのである。彼はただ自己の内部における自己完成を図るほかに途はなかったのである。彼が古典学者として、本質的に書斎の人であったのは、このような意味をも持っているのである。つまり自己の外にある世界に働きかけるための保障も途も彼にはなかったのである(15)」ルターについては罪によってでなく、神の贈与によって賜った動機によってなす行為に対して、神はそれを保障する、と述べている。森有正氏はそれを束縛と責任という言葉で表しているが、ここで注目に値するのは、エラスムスにはルターにおける束縛と責任によって完結される神がおらず、彼の欲する自由を実現し、その結果を保障するものに自分自身をあてるしかなかったのである、ということである。哲学的信仰を持って生活していた彼にとっては当然と言えば当然の帰結である。確固たる絶対的な基盤を持ちえず、その位置には古典学者たる彼自身が存在している。もしくは古典そのものだといってもいい。再三述べたようにここに彼のヒューマニスティックな要素を見い出すのである。
 さて今度は彼の義認観についてみてみると、エラスムスは人間の善なる行ないによる功績に相対して神は報酬を与えると述べている。例えばぶどう園のたとえ(16)では労働に対して報酬が支払われている。つまり「契約にしたがってわざに対する報酬としてデナリが与えられている(17)」そのさい神が人間のわざにではなく信仰に対して報いると反論しても意味はない。なぜなら「信仰もわざであって、自由意志は信仰すべき対象に自分を向けたり、或いは離れたりするゆえに、そのかなりの働きを信仰においてもっている(18)」からである。神は人間の善なるわざによる功績を報いてくださる。すなわち義としてくださるのである。
 これは律法を行なって義とされる律法の時代、旧約の時代の義認論ということはできないであろうか。旧約の時代には、モーセの十戒から始まる律法を守ることが何よりの善であり、それが神の前に義となる生活であったのであるから。
 律法に「あなたは盗んではならない」という言葉があるが、その時代においてはこれを守ることが正しい生活であり善なることであったのである。この時に盗みたいという思いが起こってきても、盗まなければこれは義とされたのである。そこでは動機は問われない。また「姦淫してはならない」という言葉があるが、この時代にはそれをしなければ義とされたのである。ところがイエスの時には、すなわち福音の時代においてはそういう思いで人を見ることでもう既に罪であったのである。ここではあきらかに動機が問われている。エラスムスは動機にはあまり重きを置かない。あくまでわざの善悪を主張しそこに神の恩恵、刑罰が働くと考えているのである。
さてこの旧約の時代に義とされる世界での信仰の限界は“不条理なる神”にある。ここに大きな壁がある。「ある王が戦いで何の功績もたてなかった者に法外な報酬を与えたのに、熱心に働いた他の者たちは通常の俸給のほかには何ももらわなかったとする。たぶんこの王は不平を言う兵士たちにこう答えることができたであろう。『この男に対して私が好意から好きなように振舞うことが私の心にかなったからといって、それがお前たちに何の害を与えたと言うのか』と(19)」人間の功績に対して平等に報いてくれない神を表している。エラスムスは功績主義の上に立っているがゆえにそれに対して平等に報いてくださらない神はただ畏敬の念を持つ態度をとるしかないのである。
 律法の義は無意識圏の動機から発した意識圏の人間の意志に関与する。つまり人間の意識の場での行為の選択、あるいは思考の選択でもかまわないが、この次元において人間の自立的な行為が律法に則していれば義とされるのである。いわば律法を通した神との契約なのである。それゆえに人間が律法に則した行為をなしたにもかかわらず神がそれに不当な報酬または刑罰を下した時には、人間は不条理な神に不平を持ち嘆かざるを得ない。もちろんこれは即自的な契約ではない。ゆえにすぐに報いがなくても人間の耐え得るところであろう。しかしそれが度を越すと受け入れることが不可能となってくる。その逃げ場として「ああ深いかな、≪神の知恵と知識との富は≫…(20)」と畏敬の態度をとるのである。
 先の自由意志について言及したところでエラスムスの信仰観は、律法的、旧約的と述べたが、彼の義認論においてそれがより明らかになったのではないかと思われる。エラスムスは「自由意志」を律法次元から哲学的に述べていると見ることができる。

 注(13)一般的なエラスムス観である。「彼は原始キリスト教の教会的スコラ的発展と潮流の代わりに、原始キリスト教そのものの認識に貢献し、且つそれによって教会と宗教生活を再建し強める目的のために、新約聖書と教父の批判的著作の刊行に生涯の大部分を捧げた。啓蒙を阻害する敵たちによって攻撃され、貶められ、またソルボンヌ派によって異説として非難されたにも拘らず、彼は疑いもなく、誇張されたとはいえ彼の賞賛者たちによって神学者の王と呼ばれさえした。確かに彼は、たとえスコラ的教会的発展を遂げたキリスト教の熱心な信仰者ではなかったにしても、新約聖書と教父のキリスト教の熱心な信仰者であったといえよう」(相澤源七「エラスムスの自由意志論―宗教改革とヒューマニズム・再説―」『西洋史研究』東北大、復三、195?年、51ページ)
  (14)Desiderii Erasmi Opera Omnia edidit J.Clericus 10Bde Leiden 1703-1706 IV566 A (赤木善光「エラスムスのphilosophia christianaについて」『東北学院大学論文集』一般教育46、1965年、より引用)
  (15)森有正「自由と責任」『森有正全集』6、筑摩書房、1979年、285ページ
  (16)聖書マタイ伝20章1節
  (17)エラスムス、36ページ
  (18)上に同じ
  (19)エラスムス、79ページ
  (20)エラスムス、88ページ
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Author:heban
東京都出身
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