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エラスムスとルターの自由意志論争 6

   2、ルターの信仰的見地

 前の項目でエラスムスに付随してルターの「自由意志」に対する観念を少し述べたが、再び今度はルターを中心にみてみる。
 彼の自由意志に対する要旨は、自由意志は恩恵が臨めば善を指向するが欠ければ悪を指向する。ゆえに自発的な力からは罪を犯すこと以外何もなし得ず、“自由”というよりは“奴隷”と言うべき意志なのである、というものである。そして律法のわざをすべて否定する。それは律法をなす時の動機が罪にとらわれているからである。「ローマ人たちは、彼ら自身の告白によれば、彼らがいかなる有徳な行ないをなそうと、其れを燃ゆるような名誉欲からなしたのである。ギリシア人もユダヤ人もそうであり、全人類がこのとおりなのである。だが、このようなことは人々の目には道徳的善であろうが、しかし、神の目にはこれほど不道徳なことはないのである(9)」このように、ルターは律法を行なう際に常に動機を注視している。律法を全く否定するのもこのような罪を有する動機ゆえである。これは彼自身の修道院の生活を通しての苦い体験に基づくものであろう。彼の罪との苦闘の足跡はすさまじいものである。
 人間は無意識のうちに神を自己の幸福のために用いている。人間を愛し、恵み、赦し、救う神であるがゆえにこそ人間は神を信ずる。信ずる時、信ずることへの代償的恩恵がなければならぬ。神は人間の幸福に仕えるために存在するのである。人間が神のために存在するのではなく、神が人間のために存在するのであり、そして幸福ゆえに神を信ずる。幸福こそいわば人間の神なのである。幸福を求めての神信心は、幸福が見事に裏切られた時神を棄てる。ルターはこの自己中心愛の中に自分の罪を見た。愛と栄光をできることならすべて自分に集めたい。隣人の栄光よりも神の栄光より自分の栄光を求めようとする。神の前に善き行ないをしようとするのも客観的に自分を省(かえり)みてみると、その根底にあるのは神の栄光のためにではなく自分の栄光のためにであった。ちょうどイエスが律法学者やパリサイ人に向って言った「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯の外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず杯の内側をきよめるがよい。そうすれば外側もきよくなるであろう(10)」のごとくルター自身、外側をきよめようとすればするほど、内側の醜さに呻吟したのであろう。自分の意識内のことにおいては自分の肉に鞭打ちながらも善なることをなしたであろうに、しかし動機となると人間の力の及ぶところではなかったのである。まさしく“何ものか”によって贈与されたものを受けとるしかなかったのである。“何ものか”とはそれはまさにサタンであり、我々は罪の奴隷となっているのである。「人間の意志は、両者(神とサタン)の間に、いわば荷役獣のように、おかれている…いずれの馭者の方へ走り、いずれの馭者を求めるかを選択する力は、彼にはないのである(11)」ルターののっぴきならない罪に拘束された自らへの嘆きである。神に御されれば何の問題も生じないであろうに、現実は一方的にサタンに御され其れを阻止しうる手段はないのである。それはすべて神に託されている。
 それではルターにとっての自由とは何だったのか。行為の選択ということにはもうすでに自らの自由を見い出せなくなってしまった。そして意識はすべて人間の動機へと移っていく。その中で罪に捕らえれている自らの心が罪から解放されること、それがルターにとっての最大の自由であった。それはこの世における名誉や地位、見栄もろもろのものへの固執からの解放であり偽善に対する不安からの解放であり、絶対的善なる愛なる神に満たされているという安心感である。『キリスト者の自由』の冒頭における二つの命題、
 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない
 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する(12)
これはルターにおける自由の概念を端的に表現している。現実生活における外的、環境的自由、言うならば行為の選択の自由はさほど重要ではない。否、何人に従属する僕でも然り。しかし精神はこの世の何ものにも従属してはならず、罪から来る誘惑に支配されてはいけないのである。精神は天地自由人でなければならない。
 こう見てみるとルターは正真正銘の福音次元の善悪観を持っていたといえるのではないだろうか。律法の言葉を満たすのみでは完全な善とは言い得ない。動機から罪が抜けなければ動機が清くなければ善ではないのである。この悟りはルターのかの有名な「塔の体験」を通してのいわゆる新生体験によって得た自由の境地である。それゆえルターの奴隷的意志論の背後における信仰観は、福音的、新約的と言えないであろうか。
 この信仰観の違いは義の観念においてもっと明確にされる。

 注(9)ルター、390ページ
  (10)聖書マタイ伝23章25節、26節 
  (11)本文7ページを参照(b.ルターの「奴隷的意志」論の要約)
  (12)M・ルター、石原謙訳『キリスト者の自由、聖書への序言』岩波書店、1987年、13ページ
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