いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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エラスムスとルターの自由意志論争 5

第二章 視点の違い
  a.自由意志について
   1、エラスムスの信仰的見地

 エラスムスは「自由意志」の定義を「人間が、永遠の救いへと導くような事がらへ自分自身を適応させたり、あるいはそのようなものから身をひるがえしたりしうる、人間の意志の力(1)」と定義したが、人間のなす意志とは何なのか。人間が自由に選択し得る意志の領域とはどこまでなのか。人間が思考するその出発点を考えてみると、直感や啓示といった最も根本的な範疇にいたるわけだが、それを明確にすることによってエラスムスの述べている自由意志とルターの述べている奴隷的意志の差異、議論の場の違いが明らかにされる。
 エラスムスは『評論・自由意志』の中で次のように述べている。「あらゆる事物には開始、進展、完結の三部分があるのだから、この人たち(ルター派)はそれの両端を恩恵に帰し、ただ進展の段階においてのみ「自由意志」は何事かをなしうると告白しているのである。しかし、同一の個々のわざに対して神の恩恵と人間の意志という二つの原因が協力しており、更に、それは恩恵が主原因であり、意志が二次的原因であって、主原因が自分自身で充足しているが、二次的原因が主原因なしには何事もなしえないというような具合に、協力しているのである(2)」これは彼がルター側との妥協点を捜し、そして両方の言い分を表し得るようなそういう結論を導きだそうとしたものであるが、しかし一次的でも二次的でも人間の自律性を主張するエラスムスと、それを全面否定するルターとの接点はない。
 この一文で注目したいのは、“開始”のわざに対しても、やはり二次的に人間の意志が関与していると考えていることである。この“開始”を厳格に見てみると先ほど言及した直感や啓示といった範疇に入ってしまう。そこにおいては人間の自律性はまったく認められない。
 ところでドイツの哲学者カール・ヤスパースは、アウグスチヌスの研究において自由の由来をこう述べている。
――われわれの行為の自由の中には次のような根本経験がある。私は意志するが、しかし私は、私の意欲を意志することができない。私は私がそこから意志するものを根本的に知らざるを得ないが、私にはこの根本を生み出すことができず、決断しうるという能力を生み出すことはできない…幸福な気質や、人好きのする素質やそのほか自然に与えられたものは、何ら確固たる地盤でもない。だから私は、自分の意志においても、自由においても、また愛においても、端的に自由なのではない。私が私に贈与されたものとして、私は自由であることができ、私自身になることができる(3)――
私の意志は私のものであるが、私の意欲は私のものではない。意欲は意志を生み出すものであり、人間の意識以前の産物である。意欲は“何ものか”によって私に贈与され、それを発起点とした意志が初めて私のものとなるのである。そこで初めて私に自由が与えられて、意志は私のものとして私の意志として動き出すのである。意欲はもうすでに直感や啓示といった範疇である。この場合この意欲を動機と呼んでも語弊はないであろう。人間の意識面上に上がってくる自然発生的動機である。エラスムスはこの動機から生まれてくる意志の力、すなわち、無意識から意識へと移行し終わったものを自由意志と呼んでいる。それは“何ものか”によって贈与された後に人間が支配する範疇、人間の自由の域に入ったものである。それゆえにエラスムスの人間の自律性を主張した自由意志は正しい。一方ルターは“何ものか”によって贈与される意欲を人間の意志と解釈し、そしてそれが常に悪を指向させられる罪の奴隷となっているわけであるからそれを奴隷的意志と宣言したのである。
 二人の論争の何かしっくりこない、まるで議論の場が食い違っているような原因はまさしく「意志」に対する観念のズレから生じているのである。それゆえそれぞれの「自由意志」に対する議論の場において主張している「自由意志」については正しいであろう。しかしそれは全く別のことを言い合っているのである。
 ではなぜこのようなズレが生じてしまったのだろうか。それは二人の内面的深さの違いからきたものではないだろうか。
 このような抽象的でデリケートな問題に対して、それぞれのある言葉に対する観念の違いはしかたないものと思われる。ヤスパースの意欲と意志を基準とすれば、ルターはとんだ間違いをしてエラスムスを批判したわけだが、もとはといえばルターの奴隷的意志の発表(4)に対してエラスムスがその内容を受けて反論したのであるから、双方の議論の場においては、エラスムスがとんだ間違いをしたことになる。現実は後者の方であろう。そしてそれはエラスムスが単なる勘違いや思い違いをしたわけではなく、まさしく内面的深さの相違から起こったことなのである。
 金子晴勇氏は二人のこの論争の相違において、ルターのエラスムスに比べて内面的に突出した部分を「良心」の深さの相違として説明している(5)。この「良心」という言葉を持ち出しているのは、ルターの『良心を教導するための三様の善き生活についての説教』から取ったところに由来する。この書では良心の深さが神学的に三形態に分類され、説明されている(6)。これを神学的なものから一般的なものへオーバーラップさせているのであるが、それを少し要約してみると、第一は社会的習俗の領域であって社会的風俗、因襲、言い伝え、伝統、掟という規定に服し、この深さをクリアーにしている良心はこれを守ろうとする。第二の領域が、道徳的意識の反照域であり道徳、倫理を守ろうとし、これを破ると良心の呵責を生じる。そして第三の領域は、人間が現に在る日常的に堕落した状態をたえず超越して真の自己たる実在に達するよう促すものが良心である。これによるとルターは第三の領域で、エラスムスは第二の領域ということになる。
 ところで二人は、それぞれの論争文を書くにあたって拠り所としているのはもちろん聖書であった。そして双方とも旧約と新約は書かれている内容が違うのだと主張している(7)。『奴隷的意志について』でルターはこのように言っているところがある。「律法の言葉は自由意志の力を証明しないで、むしろ私たちが何をなすべきか、また私たちが何をなしえないかを示すものだということが≪正しい結論として≫成立しているのである…「帰れ」という言葉は聖書では二様の使い方で使われている。すなわち律法的な使い方と福音的な使い方である。律法的な使い方では…あらゆる戒めの実行が含意されているのである。福音的な使い方では、神の慰めと約束の声であって、この声によっては何事も私たちから要求されていない。むしろ、私たちに神の恩恵が差し出されているのである(8)」この自由意志のところを前述したようにルターは“何ものか”によって贈与された意欲、もしくは無意識下からの動機と解釈しているのでそういう意味で内容を追ってもらうと、自由意志の力とは、「無意識下から発する動機の自律性」という事であるから、無意識下のものを無理矢理人間の意識で動かしめようとしていることになるのである。律法の言葉はこれを証明しているのではなく、私たちが何をなすべきか、また何をなし得ないかを教えているというのである。要するに律法の言葉は動機を正しめるのではなく、私たちがどういう行ないをしなければならないのか、ということを教えているというのである。これはエラスムスが主張していることと同じである。ただし、これはあくまで動機は除外し行為の次元においてである。律法の言葉はこういう戒め、行為の戒めの言葉だと思われる。そうだとするとエラスムスが人間の自由意志の自律性を主張するのは当然である。自由意志によって律法を守り善を立てて行くのである。そこに神の予定は入らない。人間の責任分担である。
 旧約聖書においてはまず外的行ないをただす教育が盛り込まれているのではないだろうか。例えば人間の赤ちゃんを見てみると、生まれたばかりの赤ちゃんがまず教育されるのは、これはしていいこと、これはしてはいけないこと、そして少し成長すると、これは善なることだからこれをしなさい。これは悪なることだからしてはいけません。とこのように教えられないだろうか。この段階では動機など問われない。行ないにおける善悪基準を教え込ませる為の言葉であろう。
 エラスムスの自由意志は動機まで至らず、まだ意識内での人間の自律性に属するものである。律法の行為時の善悪基準を問題とし、そしてそれを守っていくところに意味がある。それゆえにエラスムスの自由意志における背後の信仰観は、律法的、旧約的信仰観と言えないだろうか。

 注(1)本文19ページを参照
  (2)エラスムス、82ページ
  (3)K・ヤスパース「イエスとアウグスチヌス」(林田新二訳『ヤスパース選集』12)理想社、1965年、157ページ、(以後ヤスパース)
  (4)本文15ページを参照
  (5)金子晴勇『宗教改革の精神―ルターとエラスムスの対決―』中央公論社、1977年、180ページ
  (6)ルターは良心の三様を旧約聖書の幕屋の比喩を用いて分類している。(一)「幕屋の前庭」―外的な事物や宗教的儀式の規定に縛られている外的人間を指す。これは当時のローマカトリック的敬虔な生活をいう。(二)「幕屋の聖所」―教会を指し、愛、柔和、貞潔などの有徳が問われる。と同時にその行為の基底には功績を求める悪しき意図を持つ、罪に染まっている良心を指す。(三)「幕屋の至聖所」―ただ信仰により聖霊の授けを受けることによってのみ、良心はこの至聖所に入ってゆき、真の自由を授けられる(金子晴勇『宗教改革の精神―ルターとエラスムスの対決―』188ページ)
  (7)ルターは『奴隷的意志について』で「旧約が元来律法と脅迫からなりたっているように、新約は本来約束と奨励とからなりたっている。なぜなら新約においては福音が宣べ伝えれているからである…「詳論」がこれらのことについて何も理解していないということは、「評論」が旧約と新約との区別を知らないことを十分明るみに出しているものである」(282ページ)と言っているが、エラスムスもその区別の内容に言及していないが、『平和の訴え』(箕輪三郎訳、岩波書店、1961年)の中できちんと区別している。
  (8)ルター、259ページ
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Author:heban
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