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エラスムスとルターの自由意志論争 4

  b.ルターの「奴隷的意志」論の要約

 さて、ルターはエラスムスの『評論・自由意志』に激烈な言葉を持って反論したが、その暴言とまで思われるような言葉尻にとらわれずに、その背後で彼は何が言いたかったのかを探ってみたい。
 ルターが『奴隷的意志について』の中で語っていることは自由意志の全面否定であるが、それは人間の自律性の否定だけでなく善悪の指向性の否定でもあった。つまり自由意志によってなす律法はすべて罪であり、善を指向することはあり得ないというのである。それゆえに人間の救いは神の一方的な憐れみによるものであり、何ら人間の功績、失行には関係ない。人間に帰するものは何もないというのである。
 自由意志は恩恵が臨めば善を指向するが欠けば悪を指向する。ゆえに自発的な力からは罪を犯すこと以外何もなし得ず、“自由”というよりは“奴隷”というべき意志なのである。人間は人類始祖より罪の血統の中にあって、その心は悪魔に捕らえられ奴隷とされている。それゆえに、神の恩恵がなければ善を選択することができないのである。ルターはそれを次のように述べている。「人間の意志は、両者(神とサタン)の間に、いわば荷役獣のように、おかれている。もし神が御したもうなら、それは神が欲したもうところへ欲し向うのである…もしサタンが御していれば、サタンが欲する方へ向うのである。いずれの馭者の方へ走りより、いずれの 馭者を求めるかを選択する力は、彼にはないのである。むしろ馭者たちの方が、いずれがこれをとらえおのれのものにするかと、せり合っているのである(8)」これが人間の自由意志の姿である。それは自由な意志でなく神に御してもらっていなかったら常にサタンに、罪に隷属している奴隷的意志なのである。あえて自由意志という言葉でそれを定義するならばルターは次のようにそれを言い表している。
――人間の自由意志が承認されているのは、人間の上にある事がらに関してではなく、ただ彼のしたにある事がらに関してのみであるということである。言いかえれば、人間は、自分の資力や財産については、自分が、自分の自由意志によって、それらを使用したり、造り出したり、放棄したりする、権限をもっていると心得てよい。とは言っても、これとても、もっぱら神の「自由意志」によって、神の好まれる方へ向けられているものではある。そのほかの、神に関すること、あるいは、救いまたは滅びに関する事がらでは、人間は「自由意志」をもっていず、むしろ、神の意志か、あるいは、サタンの意志の、捕囚であり、下僕であり、奴隷である(9)――
人間は神の一方的な恩恵によって左右される。ということはとどのつまり、神の予定の中に人間も救いも刑罰もすべてはいっているということである。ルターはこのような観点から今度は決定論へとその論旨を展開していく。
 この被造物は神が造ったわけだからそれを全能の働きによって動かし、それぞれに神が与えた能力に応じて神の働きに参加させることに何の矛盾があるだろうか。彼は神の絶対性を強調し、人間の自由意志などというものは神と人間の関係において全く存在する余地などないということを強調している。エラスムスとほとんど正反対のことを言っている。人間の自由意志の有無そして善悪の選択。人間の自由意志と呼んでいるものは、実は何の自律性を持たない奴隷的意志であり、なおかつそれは善を選択できず、常に罪により悪しかなさない。神の前に善でないものはすべて悪である。善悪の中間物はない。
 ルターはどこまでも人間の救いに関する事がらにおいてその自律性を絶対否定する。その裏には彼自身の体験からくる教訓があるのである。「人間は、彼の救いが、全く彼の力やもくろみや努力や意志やわざの外にあり、全く他の者の、すなわち、神のみが意志決定やはかりごとや意志やわざに依存していることを知るに至らなければ、徹底的に謙遜にはされないのである。なぜなら、自己の救いに対して、どれほどささいなものであれ、なにかをなしうると確信しているかぎり、彼は自己信頼にとどまり、徹底的に自分自身に絶望するには至らない(10)」それゆえ、自分の力、実力、意志までも否定し、ただ神の救いの御手を待ち望む者がその神の救いに一番近いというのである。ルターが、人間が神によって救われる事がらにおいて一切の自律性を認めないゆえんは人間の罪にある。自己中心的な「自由意志」を持っている限り、ルター的に言えば罪による奴隷的意志を持っている限り、人間のすることなすことすべては神の前に善たらしめないのである。
 彼は自由意志を肯定する動機の中には絶対、神に報酬を求める打算的な思いが入っていることを再三述べている。自分自身の罪ゆえに神が私を憐れんでくれなければ善をなすことができないという、全面否定から来る絶対的な謙虚さの上に何の曇りの一点もない信頼を持って、すべてを神に帰せられる動機から行われる行為のみが、神の前では善なのである。しかしこのようなわざが律法を守ることによっては生まれない。要するに善をなそうと思ってできることではないのである。自己の主観による善悪基準を超え、すべて神に委ねただ信仰のみを持ってなされることだけが神の前に善とされるのである。それゆえルターは何度も何度も執拗に、律法のわざは義とされずそれどころか自由意志によって熱心に律法をなすほどに、神の義に対して最悪の状態となることを主張するのである。
 「いかなる人もおのれのわざによっては、なにものをもおのれの義のためにもたらすことはないということは、明白であり、また「自由意志」のいかなるわざ、いかなる熱心、いかなる努力も、神のみまえには何事もなしえず、むしろ、いっさいが不敬虔で不義で邪悪だと判断されるということも、また明白である。なぜなら、もし彼自身が義でなかったら、彼のわざも献身も義ではないであろうから(11)」彼自身が義でなかったらとは、自由意志によって善をなそうとするのでなく、ただ信仰によってすべてを神に依存するところから物事をなす人でなかったら、という意味である。このような記述はいたる所に見られる。律法は自由意志による行為を促すがゆえに、ルターは律法を否定し自由意志を否定している。律法は義に至るように協力するのでなく罪の自覚を人間に与えるのである。
 エラスムスは神と人間が相関関係にあることを主張するがゆえに、不条理の神に苦しむ一面を持っていたがルターはどうだろうか。
彼はすべてを神に帰し、神からの報酬も神と人間の相関関係によるものでなく、神からの一方的なものであるとするがゆえに不条理な神という観念がなく、神の義は人間が測り知る域ではないことを主張する。結局のところ言っていることはエラスムスと同じであるが、その言葉の背後の意識が違う。域を越えた神の意志は詮索すべきでない。私たちに宣べ伝えられた神と、隠された神を同じように論じることはできないのである。宣べ伝えられた神は聖書や人間を通して啓示され、提供され、礼拝されている神である。隠された神とはそれ以外の私たちに知らされていない神のもう一面である。私たちは隠された神の意志を論議すべきでない。「なぜなら、私たちが導かれるのは言(ことば)によるのが当然であって、かのきわめがたいご意志によるのではないからである(12)」宣べ伝えられた神によってすべて解決されるがゆえに、隠された神にも絶対なる忠誠を誓うことができるのである。
 ルターは人間の自律性を全く否定してすべてを神に帰している。それは、人間が罪の奴隷的意志によって律法をなそうとしているからである。ゆえに彼から見れば人間が善をなせるのはただ神の恩恵によってのみであり、人間の功績によるものではないのである。

 注(8)M・ルター「奴隷的意志について」(ルター著作集委員会編『ルター著作集』第1集第7巻)聖文舎、1966年、167ページ(以後ルター)
  (9)ルター、172ページ
  (10)ルター、162ページ
  (11)ルター、455ページ
  (12)ルター、268ページ
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はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムに『奴隷的意志について』を書くきっかけとなった『評論「自由意志」』がリクエストされています。ブログをご覧のみなさんの投票次第で復刊される可能性があります。
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なおheban様。このコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。
2011/10/05(水) 19:27 | URL | 大絶画 #jzsxBZcM[ 編集]
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