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エラスムスとルターの自由意志論争 3

第一章 双方の意見 
  a.エラスムスの「自由意志論」の要約

 まずエラスムスの出版した『評論・自由意志』を見てみたい。この書はルターのハイデルベルクにおける討論の中の、神学的提題の13命題と、そしてローマカトリックからの破門(予告)教書に対する弁明書『Assertio』(『レオ10世の新教書によって有罪とされたマルティン・ルター博士の全条項の主張』)に対するものである。ルターはそこで何を主張しているかというと、堕落後の自由意志は単なる名前だけのものであって、人は自分自身の中にあることを行なう限り死に至る罪を犯しているということを言っている。ここで彼は、自由意志の全面否定、存在すらしていないという主旨を表明している。さてエラスムスはルターのこの内容に対してどのような論旨を展開したのだろうか。
 エラスムスは『評論・自由意志』において、人間の自由意志の自律性を説き、その意志は罪による毀損により悪を欲するが、しかし善をも欲し得る。そしてその善悪を選択し得る人間の自由意志が善なる業をなすことによって、神に義とされ報いられるのだ、ということを主張している。決定論による完全なる神への隷属から人間を擁護しているのである。
 彼の自由意志の自律性と善の指向性の論述には、論展開の中で多少の流動性が見られるが(1)、しかしその依存する数値的な大小はあったとしても、帰結する点は変わらない。それは人間の自由意志が善悪両方へ動き得るということを再三述べている論述からも明らかである。「彼らの意志に選択する能力を残しておられるのであって、神はこの能力を自由に≪善悪≫両方向へ動きうるものとして彼らに造りたもうたのである(2)」そしてそれは「たとえ意志決定の自由が罪によって傷を受けても、絶滅されてしまったのではないからである。たとえ意志決定≪力≫がびっこを引き起こして、恩恵を受ける前には、私たちは善よりは悪の方へいっそうひどく傾くものであっても、それでも≪善悪決定の≫自由が絶滅されてしまったのではないのである(3)」このように述べ彼は自由意志を次のように定義した。「人間が、永遠の救いへと導くような事がらへ自分自身を適応させたり、あるいはそのようなものから身をひるがえしたりしうる、人間の意志の力(4)」であると。
 罪人である人間が善を指向していくには、神の恩恵が多大に必要であるが、この恩恵を受けるか否か、賜わるか拒否するかは人間の選択圏内にあるのである。人間の持つ選択権、そしてそれらを導く神の恩恵とでは、もちろん人間の選択権などは取るに足るものではないが、しかしルターのようにすべてを神に帰するのではなく微々たるものではあるが、人間にも自由意志もしくは決定権と呼べるべきものがあるのである。
 彼はこれを証明する聖書の聖句をたくさん挙げている。「もし…するならば…であろう」という形の聖句は数えればきりがない程である(5)。これは人間に善の選択を促している聖句である。確かに人間にもし自由意志がないならばこれら二者択一の聖句は非常に不自然なものとなる。人間に選択権があってそして神が選択せよというならわかるが、人間に選択権がなくてそれでも選択せよというのは明らかに矛盾している。それゆえに人間の自由意志は認められなければならない。またそうでなければ人間の罪、悪はどこに帰せられるのか。反対に神の報酬は何の土台の上に注がれるのか。
 エラスムスの論展開はもっともである。聖書の言葉と人間の自由意志、そして人間の自由意志と神の報酬もしくは刑罰、これらがスムーズにそして理論的に納得せしめられるには自由意志はあって然るべきものである。いやなければならない。
 人間が自分の自由意志によってなされた功績や失行に対して神は報いたり罰したりする。すべて必然性から発し帰結するのであれば、神の報償や刑罰は人間にいったいどんな意味があるのだろうか。ここで仮に神は人間の行ないによって義とするのでなく信仰によってするのだと言っても、信仰そのものがわざである。自由意志によって信仰に自らを向けたり離れさせたりする。ゆえに、やはり人間の自由意志のわざに何らかの帰する点がなければならない。ルターは人間の自由意志を否定しなおかつ人間のありとあらゆる功績をも否定する。人間すべてが罪の奴隷となり神にとっては人間のなすこと一切が罪であると言っている。人間はそれ自体では善を欲することはできない。
 これに対してエラスムスは次のように述べている。
 ――どうして、人は、善きわざに満ちた多くの聖徒たちが義≪なるわざ≫を行ない、神の前に正しき道を歩み、右にも左にもそれなかったということを、あんなに何度も≪聖書の中で≫読むのであろうか。また、わざわざ神の命令に服従する者の従順がほめそやされ、服従しないものの不従順が罰せられているのであろうか。もし功績をつくしたことがむだであるならば、どうして聖書にあのように何度も審判についての言及が行なわれているのであろうか。もし、私たちには、私たちの意志によってなされるものは何一つなく、いっさいは単なる必然性によってなされるとすれば、どうして私たちは裁きの座にひき出されるのを余儀なくされているのであろうか。また、もし私たちが自分自身では何事もなさず、むしろ神が私たちのうちに働きかけて願いを起こさせ、かつ実現に至らせるまでの一部始終をなしたもうとすれば、何のためにあのように多くの忠告や命令や脅迫や勧めや要求が必要なのだろうか…――(6)
エラスムスのこの言葉に自由意志、そしてそれから発する神の義についてその矛盾が的確に指摘されている。神が与えた律法を敬虔に守りそして祈る者を神は無慈悲に罰せられるのだろうか。自由意志と神が与える報酬との相関関係に矛盾があってはならない。神は絶対的善なる方である。ルターの奴隷的意志や決定論ではとても神と人間の間に正しい、道徳的にも倫理的にも善といい得る相関関係は成立しない。彼の言うことは極端でこのように神を不条理な神としてしまう。エラスムスは、神の義の関係の中における自由意志と神の報酬、刑罰との相関関係を主張する。
 だがここでエラスムスは一歩つっこんで、現実に存在する不条理の神の一面を吐露する。「実際、どうして神はある者においてはおのれの好意を不滅の栄光をもって飾り、他の者においてはおのれの悪行を永遠の苦悩をもって罰したもうのかということを説明するのは、はるかに困難なことである(7)」ある人間においては悪行は罰せられず、小さい善行に神の大いなる祝福が与えられ、またある人間においては善行に祝福が与えられずに、小さな悪行に神の怒りの刑罰が下される。神は必ずしも公平に私たちに裁きを下さるわけではないのである。このような問題に対してエラスムスは人間の浅はかな知恵で推し測るべきでないという。神の知恵と知識の深さを畏敬し、不敬虔な無鉄砲さをもって批判してはならない。人間の域を脱している事がらについては無理に説明をつけるよりも、中庸の道を行くことの方が賢明なのである。
 人間の自由意志と神の恩恵、刑罰との相関関係を説きながらも、その内実は不条理の神が存在してしまう。確かに不条理の神も存在するがそれは人事の及ぶところではない。人間からはただ畏敬するのみなのである。そしてエラスムスは人間の自由意志は昔から明らかにされているものであり、聖書を筆頭としながら多くの賢人達が自由意志の正当性について述べていることを強調している。
 人間はルターの言うような決定論の中にすでに定められた神の予定の道を、人間から見るならば無秩序に、ある時は報酬を受けまたある時は刑罰を受けるというような無力な受動的存在ではない。神と人間はすなわち神の恩恵と人間の自由意志とが律法の善悪基準の秩序のもとに、相関関係で成り立っているのである。これがエラスムスの考える神と人間の本来の姿なのである。

 注(1)自由意志の自律性をどの程度認めるか。この問題に対してエラスムスの主張が時にはルターに引っ張られているような記述も見られる。『評論・自由意志』の21ページには「私たちがそれにより選んだり避けたりする意志は、自己の自然本然の援助によってより良い実りへと自分を連れもどすことができず、かえって自由を失って、自分がひとたび意志して献身した罪に仕えるべく強いられるほどにまで悪化している」と述べ、意志が罪の奴隷的拘束、罪に仕えるべく強いられているという状態を認めているが、同22ページでは「意志の力は全く根絶されているのではなく、有徳なことに対して有効でないようにされている」と述べている。(金子晴勇「エラスムスのキリスト教ヒューマニズム―『評論・自由意志』の研究―」『国立音楽大学研究紀要』16、1981年、35ページ)
  (2)D・エラスムス、山内宣訳『 評論・自由意志 』聖文舎、1977年、23ページ(以後エラスムス)
  (3)エラスムス、24ページ
  (4)エラスムス、19ページ
  (5)エラスムスはたくさんの聖句を挙げているが、そのいくつかを拾い上げてみると、「もしあなたがたが欲して私の言うことを聞くならば、地のよきものを食べることができる。しかしもし欲せず、私の言うことを聞かないならば、つるぎで滅ばされる」(聖書イザヤ書1章19節)「もしあなたがたが求めるなら求めなさい。かえり来たいと思うなら、来なさい」( 同イザヤ書21章12節 )(エラスムス、30、31ページ)
  (6)エラスムス、77ページ
  (7)エラスムス、88ページ
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Author:heban
東京都出身
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