いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「二人の老人」にみる良心 1 あらすじ

 ロシアの有名な作家トルストイの短編に「二人の老人」という物語があります。岩波少年文庫シリーズの「イワンのばか」に収録されていたものを昔読んだのですが、私は読むたびに人の心がよく描き出されている物語だなと思ってしまいます。
 特に善良に生きている人の、タイプの違う良心を描いているのですが、片方は文字通り「良心」、そしてもう片方は「良心の限界」とでも言いましょうか。
 私がこれを読んで感じたのは、自分の良心の限界と心の自由への憧れでした。
 まずこの物語のあらすじを紹介します。

 ある村の二人の老人がエルサレムへ巡礼に行くことになりました。比較的裕福なエフィームはまじめな百姓で酒もタバコもせず人の悪口も言ったことがなく、責任感も強いため村の長老役を二回も務めました。もう一人はエリセイといい、もとは旅大工をしていましたが、今はこの村に落ち着きミツバチを飼って生計を立てている人で、酒もタバコもする明るい性格の老人でした。
 二人はずいぶん前から一緒に巡礼の旅に出る約束をしていたのですが、エフィームは旅費もたくさんかかるため躊躇していました。しかしもうこれ以上伸ばしてはいけないとエリセイが半ば強引に約束を取り付けました。 エフィームは家にあったお金を工面して旅費を作り、エリセイは生計を立てていたミツバチの巣をいくつか売り、そして足りない分を家族のみんなから少しずつかき集めて旅費を作り、そして二人は巡礼の旅に出発しました。
 二人は順調に旅を続けていましたが、エフィームはいつも家のことが気になっていました。仕事を分担してきたけれど息子たちはきちんとしてくれているかなどなど、いろいろなことが気になってしまいます。一方エリセイは家のことは一つも気にならなかったのですが、巡礼の間やめようとわざと置いてきたタバコが時折ほしくなるのでした。それで道の途中で旅人にわけてもらったりしていました。
 ある村にさしかかるところで、エリセイは無性にのどが渇いてしまいました。エフィームはタバコを吸わないせいか足腰も丈夫でそれほど水をほしがりません。エリセイは「村で水をもらってすぐに追いかけるから先に歩いておいてくれ」と言って村に入って行きました。
 エリセイが一軒の農家に入って水をもらおうとすると、その家の者たちはみんな倒れていました。事情を聞くと、去年作物ができず、貯めておいた食料も底をつき、馬や牛を売って食いつなぎ、近所の人にも食料を別けてもらっていたけれども、とうとうもう誰も食料を分けてくれず、見向きもしなくなり、今は死ぬのを待つだけという有様でした。エリセイはまず自分のパンを分けてあげ、水を汲んできてあげ、そして小麦や簡単な食料を買ってあげました。どうにかその家の人々の命はつなぎとめました。
 しかしエリセイはここで悩み始めました。『自分はこんなところで時間をつぶしている場合ではなく、早くエフィームを追いかけて長年の夢だった巡礼に行かないといけないのに。でももし今自分がいなくなれば、彼らはまた何日もたたずにもとの飢えた状態にもどってしまう。何しろ彼らには畑も馬も牛も道具さえ何もないのだから』エリセイは彼らがかわいそうでしかたないのです。
 その晩はずっと悩み続けました。うとうとし出したのか、誰かが呼んでいる気がしてはっと目を開けると、自分が身支度をしてドアを出ようとしている姿が見えました。しかしその家の女の子がエリセイにしがみついて「パンをちょうだい」と言います。また男の子も足をつかんでいます。窓からはおばあさんと家の主人も見ています。エリセイはそこで目を覚ましました。
 エリセイは目を覚ますと心を決めました。『明日は畑を買い戻してやろう。それから馬も買い、子供たちに牝牛を買ってやろう。そうしないと、海を渡ってキリストさまをさがしに行っても、自分の中のキリストさまをなくすことになる。人を助けてやらなくてはいけないからな!』そう言って、その日にありったけのお金を使ってすべてを買い戻したのです。
 その夜、エリセイは家の人々には黙って、村を出て行きました。『この金では海を渡って旅するわけにはゆくまい。エフィームは一人でも行きついて、わしのかわりにろうそくを上げてくれるだろう。わしには、どうやら、死ぬまでこのおつとめは果たされないようだ。まあ、ありがたいことに、神さまはお情け深いから、ゆるしてくださるだろう』と言って、来た道をまた引き返して家に向うのでした。エリセイはエルサレムまでは行けませんでしたが、とても心も体も軽く、疲れを知らずに家に着きました。家ではおじいさんの無事な帰りを皆喜びました。しかしずいぶんと早く帰ってきたのでわけを聞きましたがエリセイは詳しいことはあまり話しませんでした。
 さてエフィームはエリセイと別れてから、ずっとペースを遅らせて歩いていたのですが、いっこうに追いつく気配がありません。しかたなく木陰で一休みしたのですがつい寝込んでしまい、エフィームは目を覚ますとエリセイは先に行ってしまったかとあわてて出発しました。進んでもエリセイは見当たりませんが、もう目的地で会うだろうからと考え今までのように旅を続けることにしました。
 海にたどり着くとそこから船に乗るのですが、船は一週間に一便しか出ないので、港でエリセイのことを聞きました。しかし誰も見たものはいませんでした。
 途中で道連れになった旅僧はただで船に乗る方法を教えてくれました。しかしエフィームは船賃もちゃんと用意してきたのだからとそれには従いませんでした。船にはいろいろな人種のたくさんの人がいました。エフィームは盗難にあわないように細心の注意を払いました。席に座り込むとそこをかた時も離れず、ずっと自分の荷物を抱えて座っていました。
 船が港につき、そこから陸路でまた3日ほど歩きました。そしてとうとうエフィームはエルサレムに着きました。エフィームは旅僧と一緒に聖地めぐりを始めました。旅僧はあちこち案内してくれ、行く先々でいくら献金しどこでろうそくをそえたらいいのかを教えてくれました。
 二人が宿に戻ってくると急に旅僧が財布を盗まれたと騒ぎ出しました。しかし周りの者もエフィームもどうすることもできず、そのままみんな自分たちの休みの支度をしました。
 エフィームは悩み始めました。『あの旅僧はお金を盗まれたわけではないんだ。はじめからお金は持っていなかったはずだ。どこでもお金を出したことはなかったし、わしばかりに出せと言って、自分では出さなかった。おまけにわしから1ルーブル借りたくらいだったからな』と思ったのでした。
 あくる日宿泊者たちはまた寺院周りに出かけました。エフィームは一人で回りたいと思いましたが旅僧はついてきます。礼拝を受け寺院を回り、そして祈祷をしながらもエフィームは時折自分の金がなくなっていないかと確認するのでした。彼の思いは二つに分かれていました。一方では旅僧が自分をだまそうとしているのだと考え、そしてもう一方ではもし嘘でなく本当に盗まれたのだとすれば、自分も同じ目にあわないですめばいいがと思うのでした。
 エフィームがある礼拝堂でたくさんの巡礼者と一緒に祈りを捧げていると、一番前の主のひつぎのあるところにエリセイに似た老人が立っているのが見えました。エフィームは自分の方が先に来たはずなのにと不思議に思いましたが、しかしそれはどうみてもエリセイでした。祈りを終えて出て行こうとするのでエフィームは彼を追いかけました。しかし人ごみに紛れ見失ってしまいました。その後も2回、エリセイはどこの礼拝堂でも一番前のろうそくの真下で祈っていましたが、エフィームはその度に彼をつかまえることができませんでした。一通りの巡礼を終えるとエフィームは家に帰る準備をしてエルサレムをあとにしました。
 家に帰る途中、ある村で一軒の農家からぜひ家によってくれと通りすがりのエフィームを呼び止める人がいました。エフィームは去年ここらへんでエリセイとはぐれたことを思い出しながらその家に一晩やっかいになりました。すると家の人々は話し始めました。
「わたしらは巡礼の人たちに親切にしないではいられないんです。ある巡礼の人から、この世のなかというものを教えてもらったんです。わたしらは神さまのことを忘れて暮らしていたもので、神さまのばちが当たってみんな死ぬのを待つばかりでした。去年の夏、みんな病気になってねてしまって、食べるものもなくなりました。わたしらはもうちょっとで死ぬところでしたが、神さまがおまえさんのようなおじいさんを私らのところへおつかわしくださったのです。その方はわたしらの様子を見てかわいそうに思って、飲ませたり食べさせたりして起き上がれるようにしてくれた上に、土地を買い戻し荷車と馬も買ってくれて、ぷいっと行ってしまったのです」 
「わたしらもあの方が人間だったか天使だったかいまだにわからないのです。わたしらをかわいがりあわれんでくれて行ってしまったので、、」家の人々は交互にエリセイのことを話しました。
その晩エフィームは家の人がこしらえてくれた寝床に入りながらエルサレムで見かけたエリセイのことを思い出しました。『わしの骨折りは神さまが受け入れてくださったかどうかわからないが、エリセイのしたことは神さまに受け入れてもらえたのだ』
 あくる朝、エフィームは十分な食事を持たされその家をあとにしました。
 エフィームは約1年ぶりに故郷の家に戻ってきました。家に戻ってみると息子は昼から酒を飲んでいて、たのんだ仕事は全くされていませんでした。
 エフィームはエリセイの家に向っていくとエリセイの家のおばあさんに声をかけられました。おばあさんはエフィームも無事に帰ってきたことを喜び、自分の旦那はエルサレムまで行けず途中で戻ってきたけれど、しかし無事に帰ってきたことを家中の者が喜んでいたと話しました。エフィームはミツバチの巣箱のところにいるエリセイに会いに行きました。
 エフィームはエリセイが助けた家のことを話そうとしましたが、エリセイは話をはぐらかし、他の話をし始めます。それでエフィームはエルサレムで彼を見たことや助けられた家の人々の話はもうしませんでした。

 感想は明日アップいたします。
スポンサーサイト

「二人の老人」にみる良心 2

 この「二人の老人」の話を読みながら、「私はどう考えてもエフィームじいさんだよな」と思ってしまうのです。エリセイじいさんのような心の自由さが私にはないと感じられてしまうのです。
 エリセイじいさんは、エルサレム巡礼という一生に一度できるかできないかの大事をしようとしているときに、村人たちからも棄てられたような一家のために、自分の時間とお金をすべて使ってしまうのです。聖地巡礼という信仰者であれば誰もが一度はしたいであろう、自分の夢と引き換えにです。エリセイじいさんのあの家での最後晩は相当悩んだだろうなと思います。しかし夢の中で子供たちに足にしがみつかれた時、エルサレム巡礼はいっぺんに色あせたことでしょう。そして子供たちの命やこの家族の命が目に見えるように感じられたのだと思います。
 エリセイじいさんの良心の闘いは、エルサレム巡礼という自分の信仰の証と名もなき家族の命の間で行なわれました。これは頭の中での理念の闘いではありません。博愛主義や人類愛の実現という言葉を実践したのではなく、目の前の命を心からいとおしく思い、今この人たちを助けなくて何が神への信仰であろうかと心が揺さぶられたのです。見知らぬ人でもその人に対する親しみ、人間性に対する信頼がエリセイじいさんの中には力強く息づいていました。
 一方、エフィームじいさんは念願のエルサレムに着きます。そして巡礼をし慣れている旅僧にも会いいろいろな助言をもらいます。しかしこの旅僧は巡礼をし慣れた分だけずる賢さもあり、自分は献金をせずエフィームじいさんにだけ献金をさせて、自分は同行者としてその恵みにあずかろうとしていたようです。この旅僧が本当にお金をなくしたのかどうかはわかりません。それほど悪い人ではないけれど、まっ正直な人でもないようです。エフィームじいさんはこの旅僧が気になってしかたがないのです。最初の船賃のやりとりから少し警戒し始めたようですが、エフィームじいさん自身があまり人を信じるタイプではないようです。賢く無駄や損をしないように合理的に物事を進めていくタイプなのでしょう。彼からすれば旅僧のような得体の知れない人はあまり親しくしたくないでしょう。しかしそんなことばかり、、、損をしないこと、無駄をしないこと、だまされないことばかりを気にして、一生に一度のエルサレム巡礼を雑念で無駄にしてしまうのです。
 この短編物語は次の文章で終わります。エフィームじいさんがエリセイじいさんに彼が助けた家族の話をしようとしたとき、エリセイじいさんはそれを避けました。そして彼はその時こう悟ったとあります。
「この世では、だれでもが愛とよい行ないとによって、死ぬまで自分のつとめをはたさなくてはならない、それが神さまのおいいつけなのだと」
 神さまはエリセイじいさんの行ないをよしとし、エフィームじいさんの行ないはよしとしたのかどうかわかりません。彼の足らなかったものは何かと言葉で表現するのは簡単です。たとえば、日々の外的なことに気を取られすぎて本質的なことを見ないこと。また他人に迷惑をかけない範囲で自分の利益を最優先すること。そしてもう少し極言すると自分中心にすべてを考えること。と言えるでしょうか。
 私は先回書いたルターとエラスムスを思い出すのです。エリセイじいさんは仲間からも見放された見知らぬ人を助けるのですが、そうせざるを得ない気持ちになるのです。まさしく良心の叫びでそうなってしまったのです。信仰者としての行動より人に見られないところでの心の充足を選んだのでした。そこにルターの影を見るのです。もちろん、信仰者は「人を助けることよりも聖地巡礼が大事だと考える」ということではありません。しかしそういう選択をすることの難しさがそこにはあると思います。「自分でなくても誰かがしてくれるだろう」、「自分がしたところで一時的な助けにしかならないかもしれない」などの自分の良心に対するいいわけです。それをものともしない良心の強さに心の自由を感じます。
 一方エフィームじいさんは決して悪い人ではありません。かえって良い人です。信頼も厚く人をだまさない善人です。しかし心の中のことまでには意識がなかなか行かないのです。心が自由でないのです。この心の不自由さが私にはよくわかります。私もその不自由さの中にいるからです。それゆえエリセイじいさんの心の自由さがより輝いて見えるのです。

 聖書に出てくるマリヤとマルタの話も同じですね。
『イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足元にすわって、み言に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんとも思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ。あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、なくてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。』(ルカ福音書10章38節~41節)

 ふむ、、、、本来「心」とは、こんなに自由なのですね。
カテゴリ
最新記事
プロフィール

heban

Author:heban
東京都出身
43歳

最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSS リンクの表示
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。