いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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神谷美恵子 1 序文

 「神谷美恵子とはどういう人物か」という問いにそう簡単には答えられない。
なぜならそれほど広く深く、愛に満ちた世界を一人の人間の精神の中に宿していた人は稀だからである。
 名著「生きがいについて」(1966年初版)が出版された5年後に、より思索を深めて「生きがい」について語った本がある。「人間を見つめて」である。その中から一文を抜粋する。

 苦しみというものは、したがって、人間が初めて人間の生の条件を自覚する契機なのだと思う。苦しみや挫折をこういうふうに生かすことができれば、これもまた大きな恩恵となる。
「人間を越えるもの」が宇宙全体を支えるものだとすれば、そのものから人間に注がれる「配慮」を、「愛」とか「慈悲」とか人間的な言葉で表現するのも、ずいぶんこれを矮小化したことかも知れない。しかし人間はほかにことばを知らないのだ。ということは、ほんとうにはその実体が私たちにはごくおぼろげにしかわからない、ということを意味する。その認識能力が、私たちのあたまには、まったくそなわっていないのだ。
 しかし、まぎれもないことは、人間がみな「愛へのかわき」を持っていることである。その大いなる実体がわからないにせよ、人間を越えたものの絶対的な愛を信じることが、このかわきをみたすのに十分であることを、昔から古今東西の多くの偉大な人や無名な人びとが証明してきた。このかわきがみたされてこそ、初めて人間の心はいのちにみたされ、それが外にもあふれ出ずにはいない。―中略―
 精神科医というものは、この問題にたえず直面しないではいられない。いったい、フロイドの精神分析や、ビンスワンガーの現存在分析で、解決できることであろうか。理論というものは分析や説明は一応できても、ほんとうの解決策にはならない。巧妙な技術だけでも足りない。現場の私たちに必要なのは知識や技術とともに、これを生かす正しい愛の力なのだ。
 私のまわりには悩みや苦しみがあふれている。らいや精神病にかかった人、およびその肉親の苦しみは、多くは一生つづいて行く。また、一見はなやかな生活をしている人でも、絶海の孤島にいるような孤独に心を凍らせている人のあることを私は知っている。この人たちに対して、いったい精神医学が何ほどのことができるというのだろう。人間の知恵も愛もあまりにも不純で弱い。少なくとも私は、たった一人の人間でさえ、真の意味でさいごまで愛し通せると断言する勇気はない。通り一ぺんの愛情でさえ注ぎうる相手は十指にみたないであろう。
 無力感にうちひしがれるとき、私は好んで山の稜線に目をあげる。そこに一本または数本の木が立っていればなおさらよい。木々の間を通してみえる空は神秘的だ。その向こうには何が――との思いをさそう。
 ことに夕やけの時など、山が次第に夕もやの藍に沈んでゆくと、稜線に立つ枝がくっきりとすかし模様をえがき、それを通して、この世ならぬ金色の光がまぶしく目を射る。地上にどんな暗いものが満ちていようとも、あそこにはまだ未知なもの、未来と永遠に属する世界があると理屈なしに思われて、心に灯がともる。非合理な「超越」への思慕も昔から人の心を支えてきたのだ。この思慕がみたされるとき、初めて心に力が注がれる。―中略―
 人は生きがいを「何かすること」に求めて探しまわる。しかし何かをする以前に、まず人間としての生を感謝とよろこびのうちに謙虚にうけとめる「存在のしかた」、つまり「ありかた」がたいせつに思える。それは何も力んで、修養して自分のものにする性質のものでなく、前章にのべた「愛の自覚」から自然に流れ出るものであると思う。
 まずこの泉を掘りあてれば、私たちは「何かすること」がなくても、何もすることができないような病の床にあっても、感謝して安らうことができる。死に直面しても、死は苦しみにみちた人生から大きな世界への解放として展望することができる。もし銀河系の中に、天体のあいだに、自由に飛翔しうる存在となれるならば、それはすばらしく雄大なことではなかろうか。

 これは彼女が家の書斎で多くの本を読み、そして人の苦悩を思って書いた文句ではない。自分の足で自らハンセン病の隔離施設を訪ね、精神科医として汗を流して書いた文句なのだ。
 私は行間に、涙が流れ出てくるほど彼女の暖かい気持ちと人に対する尊敬の念を感じずにはいられない。
 
 これから何回かにわたって彼女の著作を通し、その思想、生き方等を紹介していこうと思う。
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神谷美恵子 2 癩者に

 神谷美恵子の書き残した有名な詩がある。
 1943年8月、岡山の離島に造られたハンセン病患者のための国立療養所愛生園に12日間だけ行った。戦時中であったため、十分な治療を受けることもできず、平均2日に一人ないしは二人死んでいったと言われる時期である。
 医師として愛生園を訪ね医療作業の見学を行なうのであるが、死体として運ばれてくる患者一人一人にその背後の人生の壮絶な闘いを感じたのであろうか、下記の詩を書いた。
 人の心を打たずにはいられないこの詩は、おそらく時代を超えて多くの人々の良心に問いかけるであろう。


  癩者に

光うしないたる眼(まなこ)うつろに
肢(あし)うしないたる体(からだ)になわれて
診察台の上にどさりとのせられた癩者よ
私はあなたの前に首(こうべ)をたれる。

あなたは黙っている
かすかに微笑(ほほえ)んでさえいる
ああ しかし その沈黙は 微笑は
長い戦いの後にかちとられたものだ。

運命とすれすれに生きているあなたよ
のがれようとて放さぬその鉄の手に
朝も昼も夜もつかまえられて
十年、二十年と生きて来たあなたよ

なぜ私たちでなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ
代って人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。

ゆるして下さい、癩のひとよ
浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい
そこはかとなく 神だの霊魂だのと
きこえよき言葉あやつる私たちを。

心に叫んで首をたれれば
あなたはただ黙っている
そしていたましくも歪められた面に
かすかな微笑みさえ浮かべている。

神谷美恵子 3 略歴

1914年 岡山に生まれる(父は戦争直後、文部大臣となった前田多門。母は群馬県富岡の富豪金沢家の三女、房子。兄はフランス文学者の前田陽一。そして二人の妹と弟が一人いる)
1920年 東京、下落合小学校に入学。
1921年 聖心女子学院小学部に編入する。
1923年 父多門がジュネーブの国際労働機関の日本政府代表に任命され、家族そろってジュネーブで暮らす。ジャン・ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入する。その後、ジュネーブ・インターナショナル・スクールへ進学。
1926年 家族全員帰国する。自由学園に編入するが、学風が合わず登校拒否を起こし、数か月後に成城高等女学校へ転校する。
1932年 成城女学校を卒業すると津田英学塾に入学。
1934年 叔父(金沢常雄)に誘われて多磨全生園を訪れ、強いショックと感動を覚える。ハンセン病患者に接する医師になろうと決意する。
1935年 津田英学塾大学部へと進学する。結核に侵され軽井沢で療養生活をする。
1938年 アメリカ、コロンビア大学、大学院でギリシヤ文学を学ぶ。
1939年 クエーカー教徒が創設したペンドル・ヒル学寮に移る。
1940年 帰国
1941年 東京女子医学専門学校本科へ編入学。
1943年 長島愛生園へ行く。
1944年 東京女子医学専門学校卒業。東京大学精神科医局に入局。
1945年 終戦と同時に父親が文部大臣に就任し、文部省で通訳・翻訳業務に従事する。
1946年 神谷宣郎(当時、東大理学部講師)と結婚する。
1947年 長男、律 誕生
1949年 次男、徹 誕生。マルクス・アウレリウス『自省録』翻訳出版。
1950年 アテネ・フランセでフランス語を教える。
1951年 芦屋に転居。愛真聖書学園分校として自宅でフランス語を教える。神戸女学院大学の非常勤講師になる。
1952年 大阪大学医学部神経科に研究生として入局。カナディアン・アカデミーでフランス語を教える。自宅でフランス語の私塾を開く。
1954年 神戸女学院大学助教授に就任(英語・英文学)
1955年 母親房子死去。初期癌が発見されラジウム照射で治療。神戸女学院大学で非常勤講師としてフランス語、精神衛生を教える。
1957年 長島愛生園の非常勤職員としてハンセン病の精神医学的調査を行なう。
1960年 大阪大学より医学博士の学位授与。神戸女学院大学社会学部教授に就任。『生きがいについて』の執筆を始める。
1962年 父親多門死去。大阪大学助産婦学校で精神医学を教える。
1963年 津田塾大学教授に就任(精神医学と上級フランス語)。四国学院大学でも非常勤講師として精神衛生の講義をする。アメリカ、イギリス、フランスへ海外視察。
1965年 長島愛生園精神科医長となる。
1966年 『生きがいについて』を出版。バージニア・ウルフの病跡研究のためイギリスへ行く。
1967年 愛生園精神科医長を辞し、非常勤医として診療を続ける。
1969年 ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生』翻訳。
1970年 ミッシェル・フーコー『精神疾患と心理学』翻訳。
1971年 『人間をみつめて』を出版。
1973年 『極限のひと』を出版。
1974年 『こころの旅』を出版。一過性脳虚血発作により入院。芦屋より宝塚に転居。
1976年 津田塾大学教授を辞任。バージニア・ウルフ『ある作家の日記』翻訳。
1977年 『神谷美恵子エッセイ集』Ⅰ、Ⅱを出版。
1978年 『精神医学と人間』を出版
1979年 10月22日、心不全により死去。 

神谷美恵子 4 幼少期

 これから彼女の人生をいくつかに区切って見て行こうと思う。
 まずはスイスのジュネーブへ行くまでの幼少期、正確に言うと小学校4年生1学期までの時期と、両親について簡単に見てみる。

 父、前田多門の実父は大阪心斎橋で商人をしていたが、当たりはずれが大きく生活は安定していなかったようだ。多門は一生懸命勉強し東京帝国大学に入学、そして卒業後内務省に入る。新渡戸稲造が顧問をしていた普連土学園で、成績優秀で総代として卒業する房子に 新渡戸稲造が目を留め、配偶者にと二人の仲を世話をした。房子と結婚した頃は、実家の生活はままならなかったようだ。多門の俸給の半分を大阪の両親と二人の妹に仕送らなければならなかったらしい。
 母の房子の生家は米仏と生糸貿易をして相当な金持ちだったらしいが、父は若死にし、その上父が金を貸していた男に屋敷を放火され全焼してしまった。祖母は5人の子どもを抱えて無一文から生活をしなければいけない羽目になってしまった。しかし祖母はしっかりした人で、再婚することなく子どもを育て上げた。房子は活発で成績のよい子だった。経済的に余裕のない家であったが、富岡市からの給費生としてアメリカのクエーカー教徒が創設した女学校(普連土学園)へ進学した。
 さてこの二人の間に二男三女の子どもが生まれる。美恵子は1914年、兄を一人置き長女として岡山県で生まれるが、父親の仕事の関係ですぐに長崎、そして東京へと転居する。
 東京で小学校に上がる。兄妹たちは成城学園に就学したが、彼女だけは地元の下落合小学校に通った。しかし自分だけ地元の公立小学校に上がったことをすねるでもなく、かえってよかったと言っている。
「当時はまだ田舎という感じのところで、万事がのんびりしていた。私のような神経質な子どもにはピッタリの学校だったのだろう。ろくに勉強しなくてもやさしい先生がかわいがって下さったし、隣には親切な上級生が住んでいて毎朝さそいに来てくれた。大きな麦わら帽子をかぶり、長い草履袋をぶらさげ、友だちと並んで泥んこの道を長ぐつで歩いている写真が一枚残っている。この下ぶくれの小さな女の子の顔を見ると、土から生えたばかりの雑草のような、単純な「生きるよろこび」がそこから発散しているようだ。この泥んこの田舎道こそ、私に最もよく適合していたエレメントだったにちがいない」(『遍歴』より)
 しかしこの生活は1年しか続かず、二年生の時には聖心女子学院小学部に編入する。そこからは少々つらい学校生活に変わる。
「生徒は華族や金持ちや、上流階級の令嬢たちが主で、当時はまだ珍しかった自動車で送り迎えされている者も多かった。気どった「あそばせことば」。厳格な規律。黒い尼僧服をまとった先生たち。――「田舎の学校」から来た泥くさい女の子にとって、変化はあまりに大きかった。階級的な劣等感ともいうべきものに圧倒された。(中略)この劣等生にとって何よりつらい「苦痛の儀式」は毎週月曜日、生徒めいめいが白い長手袋をはめて、きちんとプレスをした紺の制服を着て、しずしずと列を組んで礼拝堂へ行くことだった。(中略)やがて担任の先生が一人ずつ生徒の名前を呼びあげる。呼ばれた者は静かに立って聖堂の真中の通路を通り、「校長様」と呼ばれる最高位の尼僧の前に立つ。校長様は、その生徒の先週間の成績を記した巻ものを渡して下さる。各学科目に甲乙丙丁がつけられるわけだが、私はめったに甲の評価を与えられたことはなかった。これも当然私の劣等感をつよめ、私をますます内気にした。ある日のこと、その恐ろしい月曜日なのに、私は白手袋を持ってくるのを忘れていたことに気がついた。どうしよう。相談する先生も友人もまだなかった。融通のきかない、臆病な私としては、みっともない方法をとらざるを得なかった。同級生が礼拝に行っている間、自分の机の下にちぢこまって隠れていたのである。こういう自分はいまだに心のどこかに住んでいるような気がする」(『遍歴』より)
 小学校4年の1学期を終えるまでこの萎縮した学校生活を続けていた。そしてその後、解放感と自由と成長をもたらしたといわれるスイスでの生活が始まるのである。

神谷美恵子 5 スイス時代 その1

 父多門が国際労働機関の日本政府代表に任命され、任命期間中、家族全員現地で過ごすために1923年7月、スイスのジュネーブに向かう。
 ジュネーブでは「ジャン・ジャック・ルソー研究所」という“寺小屋”のような学校に入れられる。しかしこの寺子屋の自由な雰囲気が彼女にはぴったりだったようだ。
「一つの教室に一年生から六年生までの子どもたちがいて、一人一人別々な勉強をしていた。私にはたくさんのかるたのようなものが渡され、それに描かれているりんごだの、雄鶏だのの絵を、青表紙のノートに写し、同時にカードの裏に書いてあるローマ字の単語を、絵の下に記すように指示された。アルファベットを知っていたのが、せめてもの救いだったが、その単語の読みかたがわからない。la pomme, le coq などを小声で言ってみても、それが「ほんとうの発音」であるかどうかわからない。「ほんとうのことが知りたい!」とじりじりしてくる頃にシャンポ先生がまわって来て教えてくれ、私に復唱させる。このかるた式教授法は毎日つづけられたが、教室内の勉強よりも休み時間に友だちと遊ぶことによって、ずっと早くフランス語を覚えたと思う。みんな別々に勉強していても、午前10時から30分間、近所の公園に遊びに行くことと、皆いっせいに歌を歌う時間だけは例外であった。(中略) 今考えてみても、いったいあの学校の方針は何だったのか、よくわからない。ただ寺子屋方式であったこと、生徒各自がいわば独学していたこと、大きな子も小さな子も、強い子も弱い子も皆一つの教室で学んだことくらいしか思い出せない。(中略‐手元に残っている成績表の評価のし方を見ながら‐) この学校で目標としていたのは学力をつけることよりも、人間づくりの基本と、学ぶことの基礎をとなるものを育てることであったのだろうと思われる。いわゆる勉強よりも、「注意力」とか「従順さ」など一連の徳目を優先させているところをみてもそれがわかる」(『遍歴』より以下省略)
 東京のまだ田舎風情の残る泥んこ道を長ぐつで歩いていた女の子が、ジュネーブでまだ社会の学校制度の歯車に組み込まれずに、個性が何かともわからない年齢に個性をそのまま温存してもらえた環境にいられたということは、幸せなことだったと思う。
「貧富の差、人種の差、健康度の差まで全く無視されて、一人一人の子供が独立人格として扱われ、勉強もほとんど独学で、各自の好奇心と能力に応じて、個人授業に近いことが行われていた」そしてそのいろいろな差は寺子屋では全く問題にならなかった。
 寺子屋を卒業すると、同じ建物の3階にあった「国際学校」の中学部へ進んだ。この学校は国際連盟の創設と共にその各国代表の職員家族のために作られたようである。そのため寺子屋のような地元の子どもたちが通うような雰囲気はまったくなく、いろいろな人種、民族の子どもたちが集まってきていた。ここでだんだんと大人社会の一端が見え隠れし始める。
「ここでは各クラスをフランス語組と英語組とに分けられた。英国人もいたが、それよりもアメリカ人が圧倒的に多く、彼らのために英語組がつくられたと言っても過言ではない。兄と私は一学年の差でフランス語組に属していたが、英仏両陣営の間に多少の摩擦があったことは否めない。大ざっぱにいって、ヨーロッパ人にとってアメリカ人とは何か違和感があるものらしい。その違和感を当時私もヨーロッパ人とともにわかち持っていたのだから、考えればおかしなことだ。(しかし)もっと微妙な差別のあることにある日私は気づいた。黒い髪をした、かわいらしいアリーヌ・メイエルというスイスの少女―と私は思っていたのだが―と仲よくしていたら、青い眼をしたアメリカ娘がそっと私の耳にささやいた。
「だめよ、あの子と親しくしては」
「なぜ?」
「だってあの子ユダヤ人ですもの」
シャーリー・デイヴィスがさも恐ろしいことのように声をひそめていう、その顔を私はふしぎに思って眺めた。まだ12,3歳のアメリカ少女がこんなことをいうのは、その親たちや周囲の社会通念のせいだったのであろう。ともかくこれが「ユダヤ人問題」との最初の出会いだったが、どう考えてもアリーヌはいい子だったので、私たちの友情に変わりはなかった」
 そのような中でも担任のポール・デュプイ先生はフランスの最高学府、高等師範学校の出身で、またそこで地理学を教えていた碩学の人で、高い視野からたくさんのことを教えてもらった。この先生の影響は大きかったという。
「デュプイ先生ほど私たちが質的にも時間的にも多くを教えられた先生はない。あまりにも幼かったために、その先生の「知恵」充分吸収しえなかったことが悔やまれるが、それでも漠然と何か「第一級」のものに接した思いがいつまでも残っている。中学校の子どもがああいう「大物」に教えられるという好運は、めったにないことなのだろう」と記している。本当の意味で知識や知ることに喜びを感じる学問の人の持つ、知に接する喜びに触れたのだろう。そしてこの先生は小さい者に対する愛情にもあふれていたようだ。美恵子がジュネーブを経つときにブラジルのめずらしい蝶の標本の小箱とともにこんな手紙を送っている。
「ジュネーブ、1926年11月1日
 私のいとしいミエコよ
 この小さな蝶を私の思い出に持っていて下さい。あなたの国の最も偉大な芸術家たたちは感情や観念のシンボルを、自然の中から最もよく、ひき出すことのできた人たちです。
 この蝶をあなたにあげるのは、自然そのもののものをあげるわけですが、それはあなたにそうなって欲しいと思うもののシンボルであるからです。シンボルという考えが浮かんだのは、あなたにふさわしいと私が考えたからなのです。羽の表面はしなやかで、深い、光を放つ濃い色。それらの色はいつの日にかあなたを立派な日本女性に育てることでしょう。羽の裏面には、はなやかで快活な図柄が奔放にあそんでいる。それはあなたの若々しい活気、陽気を現わしており、それによって友だち皆と仲よくできたのです。あなたの人生を通じて、知恵の裏側がいつでも快活さでありうるように、一生があなたにとって充分穏やかなものであるように、私は心から祈っています。
 フランスのおじいさんとしてキスさせて下さいね。
                              ポール・デュプイ」
 学問分野の世界で評価と地位を得た博士が、名もなき小さな小さな女の子に期待と可能性をこめて蝶の標本を送り、それをていねいに説明している姿はなんとも微笑ましい。50年以上たった今も大切に保管していると彼女も言っている。

神谷美恵子 6 スイス時代 その2

 このスイス時代で特筆したいことが二点ある。それは彼女の良心の萌芽とも思われる出来事と、おそらく彼女の原風景であろうと思われるスイスの自然についてである。

 彼女たちが暮らしていた家は豪奢な石造りの3階建ての建物だった。政府からの正式派遣であり、国際舞台ではまだまだ後進国であった日本の威信を一身に背負う大使の役目もあった。そのため何かにつけて「日本の恥」にならないようにという標語のもと、日本での生活とはずいぶんとかけ離れた背伸びをした暮らしだった。家の一階の応接間には金色のスタインウェイのグランドピアノが置かれ、テーブルやソファや椅子も木材はすべて金塗りで、背や腰かけや肘かけの部分はゴブラン織りの布で覆われていたという。
「この大きな家の応接間の、この大きなピアノの前に足をぶらぶらさせながら腰かけ、教えに来て下さるやせた、若い女の先生が、恥ずかしそうにそばに立って、バッハ、クープラン、ラヴェルなど、やさしく編曲したものを弾かせて下さった。こうした曲への好みは私が成人するまで、否、私の子どもたちにまでぬきがたく心にしみついている。このほっそりした内気の先生にならっているとき、名状しがたい、うしろめたさのようなものを、レッスンのたびに感じた。それはこのピアノの先生がいかにも貧しそうだったからだ。S学院の時は金持ちの令嬢たちの間で自分が貧しいという意識で恥ずかしかったのだが、この場合は逆の立場に自分が立ってしまっているのが、もっと恥ずかしく思えたような気がする」
 聖心女子学院で自分の貧しさが恥ずかしく子どもながらにつらい思いをしたことが、この内気な先生の言動に見え隠れして胸がいたくなったのだろうか。まるで自分が先生をいじめている加害者にでもなったような気持ちだったかと思わせる。彼女はここで貧富の差を超える考え方を知らず知らず模索し始めていたと言っている。 
 そして寺子屋学校でも心にチクリとする出来事があった。
「午前のおやつはめいめい自分の家から持ってくることになっていた。私たちのはマルグリット(家付きの小間使い)が作ってくれていたのだが、「プチ・パン」にコールド・ミートがはさまっていることが多かった。それに板チョコとか、果物を持たされる。りんご以外の果物は当時のスイスではぜいたく品らしく、いつか桃を持たされたときは、珍しい気がした。その桃の皮をむいていたとき、となりにいた白系ロシア人のサッシャという男の子が、ベンチの上をいざり寄って来て、熱心に私の桃の皮を眺め始めた。蒼白い、やせた子で、いつも寒そうにしている。
「ぼくにその桃の皮くれない?」とつぜん彼は言った。
「え?どうして皮を?実のほうがおいしいじゃない。実をあげましょうか」
「いや、ぼくは皮が好きなんだ。皮のほうが」
彼はそばかすだらけの顔をくしゃくしゃにしながら、断固として言い張り、むしゃむしゃと皮を食べてしまった。
 彼は実のほうが好きだったにちがいない、とその後私は罪の意識とともに確信するようになった。S学院で私はいつも自分を「貧しい者」と意識していたのに、いつの間にか「富める者」になっていたのだろうか。あのやせたピアノの先生やこのサッシャや、夏避暑に行って遊んだ土地の子どもたちの眼に、私たちが「富める者」と映っていることに気づいて、いうにいわれない申し訳なさのようなものを感じたのは、スイスへ行ってから二年目ごろかと思う。「日本の恥」にならないようにと、家から召使から運転手つき自動車までそなえられていた「金持ち生活」は、わが家では後にも先にもないことだったのだが、なぜか私はこの点に居心地の悪さを感じ続けた」
 目の前にその人には何の罪もないのに幸せでない人がいる。それが社会のせいであるならば、社会に疑問を持つかもしれないが自分のせいだとは思わない。しかし自分の存在が目の前の人にひけ目や恥ずかしさを感じさせるならば、それはその原因となった自分を申し訳なく思う。本来守られるべきである彼らの人間としての尊厳を自分がおかしてしまったのではないかと思う。「いやそれは自分を卑下しすぎる彼らの被害者意識が悪いのだ。気にすることではない」と言う人もいるかもしれない。しかし自分の身分を恥ずかしく思い小さくなる姿は誰も見たい姿ではない。ましてやそれを誘発しているのが自分だとしたら、やはり申し訳なさを感じるであろう。
 昔自分も痛い思いをしたから、彼女の小さな胸はその痛みに同じものを覚えてチクリとしたのだろう。

 またスイスの自然で彼女の心に深く残った面白い風景がある。
「このころ(寺子屋時代)のことで、今考えてもどうしてだかよくわからないことがある。お転婆な女の子であった私が、夕方になると必ずひとり自転車に乗って坂を降りる習慣があった。
 ぶどう畑が段々になっている山の斜面をくねって行くと、やがてある曲がり角に出て、レマン湖が一望のもとにひろがって見える。鏡のような水面に乱れとぶかもめの群れ。湖のかなたにひときわ高くそびえるアルプスの一峰ダン・デュ・ミデイ。その山の雪の色が夕映えとともに刻々と変わって行くふしぎなすがたをあかずに見守りながら、じっと立ちつくしていた。これが美というものだろうか。美を味わうこともできないと思っていた私は、大自然にとけこみ、一種の畏れにも似た気持ちに満たされていた。いまだに私には審美的感覚が不足していると思っているので、あのときのことは何と表現していいかためらうばかりである。あるいは娘時代(20歳過ぎ)の神秘主義的傾向の前ぶれでもあったのだろうか。
 やがて湖から吹きあげてくる風が寒くなってきて、うしろの山から牛の群れが、首につけた大きな鈴の音をひびかせながら降りてくる。私はため息をつき、夢からさめた者のごとく自転車のハンドルをにぎり、坂道を昇って行くのであった。お天気でさえあればこの行動は毎日くりかえされたのだから、よほど内発的なことではあったのだろう。今となっては強いて解釈や説明はつけたくない」
 いったい山を見て何をしていたのだろうか。美しさに心打たれてずっと眺めていたのだろうか。来る日も来る日も毎日、、。私は山と湖とそれらを見せてくれている自然と、彼女は無言で話をしていたのではないかと思う。その美しさを自分に見せる自然と無言の言葉を交わしていたのではないかと思えてくるのだ。「今となっては強いて解釈や説明はつけたくない」のも当然である。言葉にならないし、言葉にしたらその小さな表現力しかない持たない人間の言葉の価値にまでそれが下がってしまうからだ。
 私たちも小さい頃、変に迷信を信じたり、ちょっとした決まりごとをなぜかずっと守り続けたりと、そんな無邪気なことをした覚えが誰にでもあるのではないだろうか。そんな無邪気さの中に自然を畏敬する心も同居しているように思われる。科学が発達したとしても人間の支配し得る自然は人間の思い込みの中だけのことであって、自然は堂々とやさしくその存在をそのまま現わしている。東洋と西洋の違いは大きいと思うが、そのような情緒を人は決して忘れてはならないと思う。その情緒を失わなければ人はいつでも謙虚になれる。西洋の場合はキリスト教がその役割をも担っているのかもしれないが。

神谷美恵子さんの記事を1か月だけ中断

 8月の末から重要な仕事が入り、ブログに向かってじっくりと腰を落ち着けて文章を打てなくなってしまった。神谷美恵子さんの思想の探索は、私もいろいろな発見や認識、また考えさせられることが多くて静かな刺激を受けるのだが、1か月間はこの時間が持てそうにない。
 9月は日々の雑感を中心にブログに向かい、神谷美恵子さんの記事は10月から再開することにする。
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プロフィール

Author:heban
東京都出身
43歳

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