いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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エラスムスとルターの自由意志論争 1

 私は大学で西洋史を専攻し、当時キリスト教のカトリックとプロテスタントの違いを深く理解したいという思いがあり、卒論で「エラスムスとルターの自由意志論争」というテーマを選びました。最初はこの二人のことを調べればカトリックとプロテスタントの違いがよくわかるかなくらいにしか思っていなかったのですが、それはまったく見当違いのことでした。二人の論争はカトリック、プロテスタントの違いという話ではなく信仰観の違いの論争だったのです。
 二人の本を読みながらエラスムスの言うことはよくわかるのですが、もう一方のルターの言うことがさっぱりわかりません。知名度、影響力から言えばすべてルターが上なのですが、しかし肝心の彼の主張がまったくわからないのです。
 私は何ヶ月もルターの言ったことを考えました。彼の体験談や講義の内容、また第三者の彼の評価、いろいろな人の本や評論文を読みました。
 そしてある時、合点がいったのです。「良心」という観点から見ればきれいに説明のつくことがわかってきたのです。もちろん今までにもルターの「良心」に注目した人はいましたし、私もその本を読んでいたのですが、私自身に何の材料もないとまったく心に響かず意味もわからずただ通り過ぎてしまうのです。
 この発見は私にとって大きな人生の指針となりました。

 何回かにわたってこの拙い卒論を載せようと思います。少し硬い文章で長いです。また卒業論文ということもあり少々気負いがあります。読みづらい方は無理にお付き合いしてくださらずに、最後の「まとめ」を読んでくださればよいかと思います。簡単に短くまとめました。


                 目     次                 
          序  論
          第一章 双方の意見
            a.エラスムスの「自由意志」論の要約
            b.ルターの「奴隷的意志」論の要約
          第二章 視点の違いについて
            a.自由意志について
             1、エラスムスの信仰的見地
             2、ルターの信仰的見地
            b.信仰の手段と義
             1、エラスムスの信仰的見地
             2、ルターの信仰的見地
          結  論

          ま と め   その1  その2
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エラスムスとルターの自由意志論争 2

序   論
 
「自由意志」の問題は哲学、宗教の根本問題として、長い歴史の根底にいつも横たわっていた。キリスト教においてペラギウスとアウグスチヌス、エラスムスとルターというように、それは時に論争という事件を生み出してきた。論争を通してこのように問題が表面化してくることもあれば、そのまま底で息を潜めていたこともある。近年のブルンナーとバルトの論争は後者に属する事がらではないだろうか。
 ここでみるのはエラスムスとルターの「自由意志論争」である。この二人は同時代の宗教改革者である。ただしエラスムスのこの類の名称にはいろいろな見解があるが、しかしローマカトリックを改革せしめんとするところにおいてこの名称は妥当であると思う。
 ルターは、彼の『95箇条の提題』をエラスムスが称賛し、そして彼が『エンキリディオン』第二版の「フォルツに宛てた書簡」でルターの立場を認めていることを知り、エラスムスに宛てて1519年3月28日に手紙を書いている。これに対してエラスムスは5月30日付けの返書を送っている。しかしその内容は、ルターに相当の距離を置き自分自身はルター派でもなく、もちろん贖宥状を販売し人々を惑わしているローマカトリック擁護派でもなく中立の立場を取っているものであった。エラスムスはカトリック教会側にはルター派と見られ、ルター派にはカトリック教会側と見られていた。教会側からの攻撃に、彼は終始教会側に自分は位置していることを表明し続けていた。これに対してルターは、自分に反対しない限り自分の敵でないと判断して、再び彼に手紙を書いている。それには教会側と共同して我々に訴訟を起こしたり書物を著したりしないでくれ、という忠告にも似た請願であった。しかしエラスムスは教会側の強い要望にルター批判書を書かざるを得なくなってしまった。そして1524年9月に出版されたのが『評論・自由意志』(『Diatribe de libero arbitrio』)であった。
 ルターは1年4ヶ月の間他の仕事に追いまくられ反論の書を著すことができなかったが、1525年11月に彼はとうとう『奴隷的意志について』(『De servo arbitrio』)を出版した。この反論の書は『評論・自由意志』と比べても約4倍の量で、内容は激烈なエラスムス批判で始まっている。討論をなしたいという一貫した態度の中で書いたエラスムスは、このルターの書に憤り彼もまたその反論の書を出版した。一方ルターはかの書に自らのすべてを表したとしてもうそれに対する書物は書かなかった。
 これがエラスムスとルターの「自由意志論争」の簡単な経緯である。特に西欧では多くの人達がこの論争に何らかの決着をつけようと試みてきた。だがこの二人がそれぞれカトリック、プロテスタントという立場を持っていたが故に、その論者当事者個人の立場がどこに位置するかで、最初からその論者の意見を決定してしまうところがあった。多くの歴史家たちもこの問題を検討してきたがどちらかの立場に寄ったところから論述したわけである。例えばベイントンはエラスムス、ツヴァイクはルター、また『中世の秋』で有名なホイジンガもルターよりと思われる。これは避けられないことなのかもしれない。各々の信仰の立場によってその優劣が異なるものである。もちろん日本においても同様である。
 日本ではキリスト教が少数派だということもあってかそれ程活発にこの「自由意志論争」についての論文は出なかったが、それでも戦後あたりから注目してみると山内宣氏や森有正氏等が論文を発表している。その後どんどん発表されていったが、その多くはエラスムス、ルターそれぞれの研究の中でこの論争についての言及がなされていった。三串一士氏は4回にわたってこの論争を詳しく論述しているが、それは金子晴勇氏と立場を同じくする、ルターの信仰の内面に重きを置いた論文(1981年)であった。時を同じくして表された坂井昭広氏の論文は、ベイントンに負うところ大のもので、エラスムスの、古典もしくは異教文化とキリスト教の福音との統一に重きを置き、彼の啓蒙精神を称賛している。
 自由意志の問題を問う時に、神学的見地で問う場合には、その当人の信仰観は重要な問題である。この二人の自由意志論争については、人間の自律性と神の恩恵との問題がその根幹をなしている。問題自体がキリスト教に深く関わる神学問題なので、坂井昭広氏のようなアプローチのしかたはせず、三串一士氏や金子晴勇氏のようなアプローチのしかたをした。
 私がここで明らかにしたいのはエラスムスとルターの内面的相違である。その相違ゆえに論争での意見の食い違いがある。これはエラスムス、ルター二人に限ることでなく論争においては常のことであるが、特にこの論争においては各々の信仰観の違いがこの論争を決着の欠片も見出せないものにしてしまっている。この内面的相違、信仰観の違いとはいったいどういうものなのか。それを二人の「自由意志」「義認論」等を通して見ていきたい。

エラスムスとルターの自由意志論争 3

第一章 双方の意見 
  a.エラスムスの「自由意志論」の要約

 まずエラスムスの出版した『評論・自由意志』を見てみたい。この書はルターのハイデルベルクにおける討論の中の、神学的提題の13命題と、そしてローマカトリックからの破門(予告)教書に対する弁明書『Assertio』(『レオ10世の新教書によって有罪とされたマルティン・ルター博士の全条項の主張』)に対するものである。ルターはそこで何を主張しているかというと、堕落後の自由意志は単なる名前だけのものであって、人は自分自身の中にあることを行なう限り死に至る罪を犯しているということを言っている。ここで彼は、自由意志の全面否定、存在すらしていないという主旨を表明している。さてエラスムスはルターのこの内容に対してどのような論旨を展開したのだろうか。
 エラスムスは『評論・自由意志』において、人間の自由意志の自律性を説き、その意志は罪による毀損により悪を欲するが、しかし善をも欲し得る。そしてその善悪を選択し得る人間の自由意志が善なる業をなすことによって、神に義とされ報いられるのだ、ということを主張している。決定論による完全なる神への隷属から人間を擁護しているのである。
 彼の自由意志の自律性と善の指向性の論述には、論展開の中で多少の流動性が見られるが(1)、しかしその依存する数値的な大小はあったとしても、帰結する点は変わらない。それは人間の自由意志が善悪両方へ動き得るということを再三述べている論述からも明らかである。「彼らの意志に選択する能力を残しておられるのであって、神はこの能力を自由に≪善悪≫両方向へ動きうるものとして彼らに造りたもうたのである(2)」そしてそれは「たとえ意志決定の自由が罪によって傷を受けても、絶滅されてしまったのではないからである。たとえ意志決定≪力≫がびっこを引き起こして、恩恵を受ける前には、私たちは善よりは悪の方へいっそうひどく傾くものであっても、それでも≪善悪決定の≫自由が絶滅されてしまったのではないのである(3)」このように述べ彼は自由意志を次のように定義した。「人間が、永遠の救いへと導くような事がらへ自分自身を適応させたり、あるいはそのようなものから身をひるがえしたりしうる、人間の意志の力(4)」であると。
 罪人である人間が善を指向していくには、神の恩恵が多大に必要であるが、この恩恵を受けるか否か、賜わるか拒否するかは人間の選択圏内にあるのである。人間の持つ選択権、そしてそれらを導く神の恩恵とでは、もちろん人間の選択権などは取るに足るものではないが、しかしルターのようにすべてを神に帰するのではなく微々たるものではあるが、人間にも自由意志もしくは決定権と呼べるべきものがあるのである。
 彼はこれを証明する聖書の聖句をたくさん挙げている。「もし…するならば…であろう」という形の聖句は数えればきりがない程である(5)。これは人間に善の選択を促している聖句である。確かに人間にもし自由意志がないならばこれら二者択一の聖句は非常に不自然なものとなる。人間に選択権があってそして神が選択せよというならわかるが、人間に選択権がなくてそれでも選択せよというのは明らかに矛盾している。それゆえに人間の自由意志は認められなければならない。またそうでなければ人間の罪、悪はどこに帰せられるのか。反対に神の報酬は何の土台の上に注がれるのか。
 エラスムスの論展開はもっともである。聖書の言葉と人間の自由意志、そして人間の自由意志と神の報酬もしくは刑罰、これらがスムーズにそして理論的に納得せしめられるには自由意志はあって然るべきものである。いやなければならない。
 人間が自分の自由意志によってなされた功績や失行に対して神は報いたり罰したりする。すべて必然性から発し帰結するのであれば、神の報償や刑罰は人間にいったいどんな意味があるのだろうか。ここで仮に神は人間の行ないによって義とするのでなく信仰によってするのだと言っても、信仰そのものがわざである。自由意志によって信仰に自らを向けたり離れさせたりする。ゆえに、やはり人間の自由意志のわざに何らかの帰する点がなければならない。ルターは人間の自由意志を否定しなおかつ人間のありとあらゆる功績をも否定する。人間すべてが罪の奴隷となり神にとっては人間のなすこと一切が罪であると言っている。人間はそれ自体では善を欲することはできない。
 これに対してエラスムスは次のように述べている。
 ――どうして、人は、善きわざに満ちた多くの聖徒たちが義≪なるわざ≫を行ない、神の前に正しき道を歩み、右にも左にもそれなかったということを、あんなに何度も≪聖書の中で≫読むのであろうか。また、わざわざ神の命令に服従する者の従順がほめそやされ、服従しないものの不従順が罰せられているのであろうか。もし功績をつくしたことがむだであるならば、どうして聖書にあのように何度も審判についての言及が行なわれているのであろうか。もし、私たちには、私たちの意志によってなされるものは何一つなく、いっさいは単なる必然性によってなされるとすれば、どうして私たちは裁きの座にひき出されるのを余儀なくされているのであろうか。また、もし私たちが自分自身では何事もなさず、むしろ神が私たちのうちに働きかけて願いを起こさせ、かつ実現に至らせるまでの一部始終をなしたもうとすれば、何のためにあのように多くの忠告や命令や脅迫や勧めや要求が必要なのだろうか…――(6)
エラスムスのこの言葉に自由意志、そしてそれから発する神の義についてその矛盾が的確に指摘されている。神が与えた律法を敬虔に守りそして祈る者を神は無慈悲に罰せられるのだろうか。自由意志と神が与える報酬との相関関係に矛盾があってはならない。神は絶対的善なる方である。ルターの奴隷的意志や決定論ではとても神と人間の間に正しい、道徳的にも倫理的にも善といい得る相関関係は成立しない。彼の言うことは極端でこのように神を不条理な神としてしまう。エラスムスは、神の義の関係の中における自由意志と神の報酬、刑罰との相関関係を主張する。
 だがここでエラスムスは一歩つっこんで、現実に存在する不条理の神の一面を吐露する。「実際、どうして神はある者においてはおのれの好意を不滅の栄光をもって飾り、他の者においてはおのれの悪行を永遠の苦悩をもって罰したもうのかということを説明するのは、はるかに困難なことである(7)」ある人間においては悪行は罰せられず、小さい善行に神の大いなる祝福が与えられ、またある人間においては善行に祝福が与えられずに、小さな悪行に神の怒りの刑罰が下される。神は必ずしも公平に私たちに裁きを下さるわけではないのである。このような問題に対してエラスムスは人間の浅はかな知恵で推し測るべきでないという。神の知恵と知識の深さを畏敬し、不敬虔な無鉄砲さをもって批判してはならない。人間の域を脱している事がらについては無理に説明をつけるよりも、中庸の道を行くことの方が賢明なのである。
 人間の自由意志と神の恩恵、刑罰との相関関係を説きながらも、その内実は不条理の神が存在してしまう。確かに不条理の神も存在するがそれは人事の及ぶところではない。人間からはただ畏敬するのみなのである。そしてエラスムスは人間の自由意志は昔から明らかにされているものであり、聖書を筆頭としながら多くの賢人達が自由意志の正当性について述べていることを強調している。
 人間はルターの言うような決定論の中にすでに定められた神の予定の道を、人間から見るならば無秩序に、ある時は報酬を受けまたある時は刑罰を受けるというような無力な受動的存在ではない。神と人間はすなわち神の恩恵と人間の自由意志とが律法の善悪基準の秩序のもとに、相関関係で成り立っているのである。これがエラスムスの考える神と人間の本来の姿なのである。

 注(1)自由意志の自律性をどの程度認めるか。この問題に対してエラスムスの主張が時にはルターに引っ張られているような記述も見られる。『評論・自由意志』の21ページには「私たちがそれにより選んだり避けたりする意志は、自己の自然本然の援助によってより良い実りへと自分を連れもどすことができず、かえって自由を失って、自分がひとたび意志して献身した罪に仕えるべく強いられるほどにまで悪化している」と述べ、意志が罪の奴隷的拘束、罪に仕えるべく強いられているという状態を認めているが、同22ページでは「意志の力は全く根絶されているのではなく、有徳なことに対して有効でないようにされている」と述べている。(金子晴勇「エラスムスのキリスト教ヒューマニズム―『評論・自由意志』の研究―」『国立音楽大学研究紀要』16、1981年、35ページ)
  (2)D・エラスムス、山内宣訳『 評論・自由意志 』聖文舎、1977年、23ページ(以後エラスムス)
  (3)エラスムス、24ページ
  (4)エラスムス、19ページ
  (5)エラスムスはたくさんの聖句を挙げているが、そのいくつかを拾い上げてみると、「もしあなたがたが欲して私の言うことを聞くならば、地のよきものを食べることができる。しかしもし欲せず、私の言うことを聞かないならば、つるぎで滅ばされる」(聖書イザヤ書1章19節)「もしあなたがたが求めるなら求めなさい。かえり来たいと思うなら、来なさい」( 同イザヤ書21章12節 )(エラスムス、30、31ページ)
  (6)エラスムス、77ページ
  (7)エラスムス、88ページ

エラスムスとルターの自由意志論争 4

  b.ルターの「奴隷的意志」論の要約

 さて、ルターはエラスムスの『評論・自由意志』に激烈な言葉を持って反論したが、その暴言とまで思われるような言葉尻にとらわれずに、その背後で彼は何が言いたかったのかを探ってみたい。
 ルターが『奴隷的意志について』の中で語っていることは自由意志の全面否定であるが、それは人間の自律性の否定だけでなく善悪の指向性の否定でもあった。つまり自由意志によってなす律法はすべて罪であり、善を指向することはあり得ないというのである。それゆえに人間の救いは神の一方的な憐れみによるものであり、何ら人間の功績、失行には関係ない。人間に帰するものは何もないというのである。
 自由意志は恩恵が臨めば善を指向するが欠けば悪を指向する。ゆえに自発的な力からは罪を犯すこと以外何もなし得ず、“自由”というよりは“奴隷”というべき意志なのである。人間は人類始祖より罪の血統の中にあって、その心は悪魔に捕らえられ奴隷とされている。それゆえに、神の恩恵がなければ善を選択することができないのである。ルターはそれを次のように述べている。「人間の意志は、両者(神とサタン)の間に、いわば荷役獣のように、おかれている。もし神が御したもうなら、それは神が欲したもうところへ欲し向うのである…もしサタンが御していれば、サタンが欲する方へ向うのである。いずれの馭者の方へ走りより、いずれの 馭者を求めるかを選択する力は、彼にはないのである。むしろ馭者たちの方が、いずれがこれをとらえおのれのものにするかと、せり合っているのである(8)」これが人間の自由意志の姿である。それは自由な意志でなく神に御してもらっていなかったら常にサタンに、罪に隷属している奴隷的意志なのである。あえて自由意志という言葉でそれを定義するならばルターは次のようにそれを言い表している。
――人間の自由意志が承認されているのは、人間の上にある事がらに関してではなく、ただ彼のしたにある事がらに関してのみであるということである。言いかえれば、人間は、自分の資力や財産については、自分が、自分の自由意志によって、それらを使用したり、造り出したり、放棄したりする、権限をもっていると心得てよい。とは言っても、これとても、もっぱら神の「自由意志」によって、神の好まれる方へ向けられているものではある。そのほかの、神に関すること、あるいは、救いまたは滅びに関する事がらでは、人間は「自由意志」をもっていず、むしろ、神の意志か、あるいは、サタンの意志の、捕囚であり、下僕であり、奴隷である(9)――
人間は神の一方的な恩恵によって左右される。ということはとどのつまり、神の予定の中に人間も救いも刑罰もすべてはいっているということである。ルターはこのような観点から今度は決定論へとその論旨を展開していく。
 この被造物は神が造ったわけだからそれを全能の働きによって動かし、それぞれに神が与えた能力に応じて神の働きに参加させることに何の矛盾があるだろうか。彼は神の絶対性を強調し、人間の自由意志などというものは神と人間の関係において全く存在する余地などないということを強調している。エラスムスとほとんど正反対のことを言っている。人間の自由意志の有無そして善悪の選択。人間の自由意志と呼んでいるものは、実は何の自律性を持たない奴隷的意志であり、なおかつそれは善を選択できず、常に罪により悪しかなさない。神の前に善でないものはすべて悪である。善悪の中間物はない。
 ルターはどこまでも人間の救いに関する事がらにおいてその自律性を絶対否定する。その裏には彼自身の体験からくる教訓があるのである。「人間は、彼の救いが、全く彼の力やもくろみや努力や意志やわざの外にあり、全く他の者の、すなわち、神のみが意志決定やはかりごとや意志やわざに依存していることを知るに至らなければ、徹底的に謙遜にはされないのである。なぜなら、自己の救いに対して、どれほどささいなものであれ、なにかをなしうると確信しているかぎり、彼は自己信頼にとどまり、徹底的に自分自身に絶望するには至らない(10)」それゆえ、自分の力、実力、意志までも否定し、ただ神の救いの御手を待ち望む者がその神の救いに一番近いというのである。ルターが、人間が神によって救われる事がらにおいて一切の自律性を認めないゆえんは人間の罪にある。自己中心的な「自由意志」を持っている限り、ルター的に言えば罪による奴隷的意志を持っている限り、人間のすることなすことすべては神の前に善たらしめないのである。
 彼は自由意志を肯定する動機の中には絶対、神に報酬を求める打算的な思いが入っていることを再三述べている。自分自身の罪ゆえに神が私を憐れんでくれなければ善をなすことができないという、全面否定から来る絶対的な謙虚さの上に何の曇りの一点もない信頼を持って、すべてを神に帰せられる動機から行われる行為のみが、神の前では善なのである。しかしこのようなわざが律法を守ることによっては生まれない。要するに善をなそうと思ってできることではないのである。自己の主観による善悪基準を超え、すべて神に委ねただ信仰のみを持ってなされることだけが神の前に善とされるのである。それゆえルターは何度も何度も執拗に、律法のわざは義とされずそれどころか自由意志によって熱心に律法をなすほどに、神の義に対して最悪の状態となることを主張するのである。
 「いかなる人もおのれのわざによっては、なにものをもおのれの義のためにもたらすことはないということは、明白であり、また「自由意志」のいかなるわざ、いかなる熱心、いかなる努力も、神のみまえには何事もなしえず、むしろ、いっさいが不敬虔で不義で邪悪だと判断されるということも、また明白である。なぜなら、もし彼自身が義でなかったら、彼のわざも献身も義ではないであろうから(11)」彼自身が義でなかったらとは、自由意志によって善をなそうとするのでなく、ただ信仰によってすべてを神に依存するところから物事をなす人でなかったら、という意味である。このような記述はいたる所に見られる。律法は自由意志による行為を促すがゆえに、ルターは律法を否定し自由意志を否定している。律法は義に至るように協力するのでなく罪の自覚を人間に与えるのである。
 エラスムスは神と人間が相関関係にあることを主張するがゆえに、不条理の神に苦しむ一面を持っていたがルターはどうだろうか。
彼はすべてを神に帰し、神からの報酬も神と人間の相関関係によるものでなく、神からの一方的なものであるとするがゆえに不条理な神という観念がなく、神の義は人間が測り知る域ではないことを主張する。結局のところ言っていることはエラスムスと同じであるが、その言葉の背後の意識が違う。域を越えた神の意志は詮索すべきでない。私たちに宣べ伝えられた神と、隠された神を同じように論じることはできないのである。宣べ伝えられた神は聖書や人間を通して啓示され、提供され、礼拝されている神である。隠された神とはそれ以外の私たちに知らされていない神のもう一面である。私たちは隠された神の意志を論議すべきでない。「なぜなら、私たちが導かれるのは言(ことば)によるのが当然であって、かのきわめがたいご意志によるのではないからである(12)」宣べ伝えられた神によってすべて解決されるがゆえに、隠された神にも絶対なる忠誠を誓うことができるのである。
 ルターは人間の自律性を全く否定してすべてを神に帰している。それは、人間が罪の奴隷的意志によって律法をなそうとしているからである。ゆえに彼から見れば人間が善をなせるのはただ神の恩恵によってのみであり、人間の功績によるものではないのである。

 注(8)M・ルター「奴隷的意志について」(ルター著作集委員会編『ルター著作集』第1集第7巻)聖文舎、1966年、167ページ(以後ルター)
  (9)ルター、172ページ
  (10)ルター、162ページ
  (11)ルター、455ページ
  (12)ルター、268ページ

エラスムスとルターの自由意志論争 5

第二章 視点の違い
  a.自由意志について
   1、エラスムスの信仰的見地

 エラスムスは「自由意志」の定義を「人間が、永遠の救いへと導くような事がらへ自分自身を適応させたり、あるいはそのようなものから身をひるがえしたりしうる、人間の意志の力(1)」と定義したが、人間のなす意志とは何なのか。人間が自由に選択し得る意志の領域とはどこまでなのか。人間が思考するその出発点を考えてみると、直感や啓示といった最も根本的な範疇にいたるわけだが、それを明確にすることによってエラスムスの述べている自由意志とルターの述べている奴隷的意志の差異、議論の場の違いが明らかにされる。
 エラスムスは『評論・自由意志』の中で次のように述べている。「あらゆる事物には開始、進展、完結の三部分があるのだから、この人たち(ルター派)はそれの両端を恩恵に帰し、ただ進展の段階においてのみ「自由意志」は何事かをなしうると告白しているのである。しかし、同一の個々のわざに対して神の恩恵と人間の意志という二つの原因が協力しており、更に、それは恩恵が主原因であり、意志が二次的原因であって、主原因が自分自身で充足しているが、二次的原因が主原因なしには何事もなしえないというような具合に、協力しているのである(2)」これは彼がルター側との妥協点を捜し、そして両方の言い分を表し得るようなそういう結論を導きだそうとしたものであるが、しかし一次的でも二次的でも人間の自律性を主張するエラスムスと、それを全面否定するルターとの接点はない。
 この一文で注目したいのは、“開始”のわざに対しても、やはり二次的に人間の意志が関与していると考えていることである。この“開始”を厳格に見てみると先ほど言及した直感や啓示といった範疇に入ってしまう。そこにおいては人間の自律性はまったく認められない。
 ところでドイツの哲学者カール・ヤスパースは、アウグスチヌスの研究において自由の由来をこう述べている。
――われわれの行為の自由の中には次のような根本経験がある。私は意志するが、しかし私は、私の意欲を意志することができない。私は私がそこから意志するものを根本的に知らざるを得ないが、私にはこの根本を生み出すことができず、決断しうるという能力を生み出すことはできない…幸福な気質や、人好きのする素質やそのほか自然に与えられたものは、何ら確固たる地盤でもない。だから私は、自分の意志においても、自由においても、また愛においても、端的に自由なのではない。私が私に贈与されたものとして、私は自由であることができ、私自身になることができる(3)――
私の意志は私のものであるが、私の意欲は私のものではない。意欲は意志を生み出すものであり、人間の意識以前の産物である。意欲は“何ものか”によって私に贈与され、それを発起点とした意志が初めて私のものとなるのである。そこで初めて私に自由が与えられて、意志は私のものとして私の意志として動き出すのである。意欲はもうすでに直感や啓示といった範疇である。この場合この意欲を動機と呼んでも語弊はないであろう。人間の意識面上に上がってくる自然発生的動機である。エラスムスはこの動機から生まれてくる意志の力、すなわち、無意識から意識へと移行し終わったものを自由意志と呼んでいる。それは“何ものか”によって贈与された後に人間が支配する範疇、人間の自由の域に入ったものである。それゆえにエラスムスの人間の自律性を主張した自由意志は正しい。一方ルターは“何ものか”によって贈与される意欲を人間の意志と解釈し、そしてそれが常に悪を指向させられる罪の奴隷となっているわけであるからそれを奴隷的意志と宣言したのである。
 二人の論争の何かしっくりこない、まるで議論の場が食い違っているような原因はまさしく「意志」に対する観念のズレから生じているのである。それゆえそれぞれの「自由意志」に対する議論の場において主張している「自由意志」については正しいであろう。しかしそれは全く別のことを言い合っているのである。
 ではなぜこのようなズレが生じてしまったのだろうか。それは二人の内面的深さの違いからきたものではないだろうか。
 このような抽象的でデリケートな問題に対して、それぞれのある言葉に対する観念の違いはしかたないものと思われる。ヤスパースの意欲と意志を基準とすれば、ルターはとんだ間違いをしてエラスムスを批判したわけだが、もとはといえばルターの奴隷的意志の発表(4)に対してエラスムスがその内容を受けて反論したのであるから、双方の議論の場においては、エラスムスがとんだ間違いをしたことになる。現実は後者の方であろう。そしてそれはエラスムスが単なる勘違いや思い違いをしたわけではなく、まさしく内面的深さの相違から起こったことなのである。
 金子晴勇氏は二人のこの論争の相違において、ルターのエラスムスに比べて内面的に突出した部分を「良心」の深さの相違として説明している(5)。この「良心」という言葉を持ち出しているのは、ルターの『良心を教導するための三様の善き生活についての説教』から取ったところに由来する。この書では良心の深さが神学的に三形態に分類され、説明されている(6)。これを神学的なものから一般的なものへオーバーラップさせているのであるが、それを少し要約してみると、第一は社会的習俗の領域であって社会的風俗、因襲、言い伝え、伝統、掟という規定に服し、この深さをクリアーにしている良心はこれを守ろうとする。第二の領域が、道徳的意識の反照域であり道徳、倫理を守ろうとし、これを破ると良心の呵責を生じる。そして第三の領域は、人間が現に在る日常的に堕落した状態をたえず超越して真の自己たる実在に達するよう促すものが良心である。これによるとルターは第三の領域で、エラスムスは第二の領域ということになる。
 ところで二人は、それぞれの論争文を書くにあたって拠り所としているのはもちろん聖書であった。そして双方とも旧約と新約は書かれている内容が違うのだと主張している(7)。『奴隷的意志について』でルターはこのように言っているところがある。「律法の言葉は自由意志の力を証明しないで、むしろ私たちが何をなすべきか、また私たちが何をなしえないかを示すものだということが≪正しい結論として≫成立しているのである…「帰れ」という言葉は聖書では二様の使い方で使われている。すなわち律法的な使い方と福音的な使い方である。律法的な使い方では…あらゆる戒めの実行が含意されているのである。福音的な使い方では、神の慰めと約束の声であって、この声によっては何事も私たちから要求されていない。むしろ、私たちに神の恩恵が差し出されているのである(8)」この自由意志のところを前述したようにルターは“何ものか”によって贈与された意欲、もしくは無意識下からの動機と解釈しているのでそういう意味で内容を追ってもらうと、自由意志の力とは、「無意識下から発する動機の自律性」という事であるから、無意識下のものを無理矢理人間の意識で動かしめようとしていることになるのである。律法の言葉はこれを証明しているのではなく、私たちが何をなすべきか、また何をなし得ないかを教えているというのである。要するに律法の言葉は動機を正しめるのではなく、私たちがどういう行ないをしなければならないのか、ということを教えているというのである。これはエラスムスが主張していることと同じである。ただし、これはあくまで動機は除外し行為の次元においてである。律法の言葉はこういう戒め、行為の戒めの言葉だと思われる。そうだとするとエラスムスが人間の自由意志の自律性を主張するのは当然である。自由意志によって律法を守り善を立てて行くのである。そこに神の予定は入らない。人間の責任分担である。
 旧約聖書においてはまず外的行ないをただす教育が盛り込まれているのではないだろうか。例えば人間の赤ちゃんを見てみると、生まれたばかりの赤ちゃんがまず教育されるのは、これはしていいこと、これはしてはいけないこと、そして少し成長すると、これは善なることだからこれをしなさい。これは悪なることだからしてはいけません。とこのように教えられないだろうか。この段階では動機など問われない。行ないにおける善悪基準を教え込ませる為の言葉であろう。
 エラスムスの自由意志は動機まで至らず、まだ意識内での人間の自律性に属するものである。律法の行為時の善悪基準を問題とし、そしてそれを守っていくところに意味がある。それゆえにエラスムスの自由意志における背後の信仰観は、律法的、旧約的信仰観と言えないだろうか。

 注(1)本文19ページを参照
  (2)エラスムス、82ページ
  (3)K・ヤスパース「イエスとアウグスチヌス」(林田新二訳『ヤスパース選集』12)理想社、1965年、157ページ、(以後ヤスパース)
  (4)本文15ページを参照
  (5)金子晴勇『宗教改革の精神―ルターとエラスムスの対決―』中央公論社、1977年、180ページ
  (6)ルターは良心の三様を旧約聖書の幕屋の比喩を用いて分類している。(一)「幕屋の前庭」―外的な事物や宗教的儀式の規定に縛られている外的人間を指す。これは当時のローマカトリック的敬虔な生活をいう。(二)「幕屋の聖所」―教会を指し、愛、柔和、貞潔などの有徳が問われる。と同時にその行為の基底には功績を求める悪しき意図を持つ、罪に染まっている良心を指す。(三)「幕屋の至聖所」―ただ信仰により聖霊の授けを受けることによってのみ、良心はこの至聖所に入ってゆき、真の自由を授けられる(金子晴勇『宗教改革の精神―ルターとエラスムスの対決―』188ページ)
  (7)ルターは『奴隷的意志について』で「旧約が元来律法と脅迫からなりたっているように、新約は本来約束と奨励とからなりたっている。なぜなら新約においては福音が宣べ伝えれているからである…「詳論」がこれらのことについて何も理解していないということは、「評論」が旧約と新約との区別を知らないことを十分明るみに出しているものである」(282ページ)と言っているが、エラスムスもその区別の内容に言及していないが、『平和の訴え』(箕輪三郎訳、岩波書店、1961年)の中できちんと区別している。
  (8)ルター、259ページ

エラスムスとルターの自由意志論争 6

   2、ルターの信仰的見地

 前の項目でエラスムスに付随してルターの「自由意志」に対する観念を少し述べたが、再び今度はルターを中心にみてみる。
 彼の自由意志に対する要旨は、自由意志は恩恵が臨めば善を指向するが欠ければ悪を指向する。ゆえに自発的な力からは罪を犯すこと以外何もなし得ず、“自由”というよりは“奴隷”と言うべき意志なのである、というものである。そして律法のわざをすべて否定する。それは律法をなす時の動機が罪にとらわれているからである。「ローマ人たちは、彼ら自身の告白によれば、彼らがいかなる有徳な行ないをなそうと、其れを燃ゆるような名誉欲からなしたのである。ギリシア人もユダヤ人もそうであり、全人類がこのとおりなのである。だが、このようなことは人々の目には道徳的善であろうが、しかし、神の目にはこれほど不道徳なことはないのである(9)」このように、ルターは律法を行なう際に常に動機を注視している。律法を全く否定するのもこのような罪を有する動機ゆえである。これは彼自身の修道院の生活を通しての苦い体験に基づくものであろう。彼の罪との苦闘の足跡はすさまじいものである。
 人間は無意識のうちに神を自己の幸福のために用いている。人間を愛し、恵み、赦し、救う神であるがゆえにこそ人間は神を信ずる。信ずる時、信ずることへの代償的恩恵がなければならぬ。神は人間の幸福に仕えるために存在するのである。人間が神のために存在するのではなく、神が人間のために存在するのであり、そして幸福ゆえに神を信ずる。幸福こそいわば人間の神なのである。幸福を求めての神信心は、幸福が見事に裏切られた時神を棄てる。ルターはこの自己中心愛の中に自分の罪を見た。愛と栄光をできることならすべて自分に集めたい。隣人の栄光よりも神の栄光より自分の栄光を求めようとする。神の前に善き行ないをしようとするのも客観的に自分を省(かえり)みてみると、その根底にあるのは神の栄光のためにではなく自分の栄光のためにであった。ちょうどイエスが律法学者やパリサイ人に向って言った「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯の外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず杯の内側をきよめるがよい。そうすれば外側もきよくなるであろう(10)」のごとくルター自身、外側をきよめようとすればするほど、内側の醜さに呻吟したのであろう。自分の意識内のことにおいては自分の肉に鞭打ちながらも善なることをなしたであろうに、しかし動機となると人間の力の及ぶところではなかったのである。まさしく“何ものか”によって贈与されたものを受けとるしかなかったのである。“何ものか”とはそれはまさにサタンであり、我々は罪の奴隷となっているのである。「人間の意志は、両者(神とサタン)の間に、いわば荷役獣のように、おかれている…いずれの馭者の方へ走り、いずれの馭者を求めるかを選択する力は、彼にはないのである(11)」ルターののっぴきならない罪に拘束された自らへの嘆きである。神に御されれば何の問題も生じないであろうに、現実は一方的にサタンに御され其れを阻止しうる手段はないのである。それはすべて神に託されている。
 それではルターにとっての自由とは何だったのか。行為の選択ということにはもうすでに自らの自由を見い出せなくなってしまった。そして意識はすべて人間の動機へと移っていく。その中で罪に捕らえれている自らの心が罪から解放されること、それがルターにとっての最大の自由であった。それはこの世における名誉や地位、見栄もろもろのものへの固執からの解放であり偽善に対する不安からの解放であり、絶対的善なる愛なる神に満たされているという安心感である。『キリスト者の自由』の冒頭における二つの命題、
 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない
 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する(12)
これはルターにおける自由の概念を端的に表現している。現実生活における外的、環境的自由、言うならば行為の選択の自由はさほど重要ではない。否、何人に従属する僕でも然り。しかし精神はこの世の何ものにも従属してはならず、罪から来る誘惑に支配されてはいけないのである。精神は天地自由人でなければならない。
 こう見てみるとルターは正真正銘の福音次元の善悪観を持っていたといえるのではないだろうか。律法の言葉を満たすのみでは完全な善とは言い得ない。動機から罪が抜けなければ動機が清くなければ善ではないのである。この悟りはルターのかの有名な「塔の体験」を通してのいわゆる新生体験によって得た自由の境地である。それゆえルターの奴隷的意志論の背後における信仰観は、福音的、新約的と言えないであろうか。
 この信仰観の違いは義の観念においてもっと明確にされる。

 注(9)ルター、390ページ
  (10)聖書マタイ伝23章25節、26節 
  (11)本文7ページを参照(b.ルターの「奴隷的意志」論の要約)
  (12)M・ルター、石原謙訳『キリスト者の自由、聖書への序言』岩波書店、1987年、13ページ

エラスムスとルターの自由意志論争 7

  b.信仰の手段と義
  1、エラスムスの信仰的見地

 エラスムスの思想はキリスト教的ヒューマニズム、またはキリスト教哲学者等、いろいろな名称がつけられその位置づけも様々である。彼のヒューマニスティックな部分を強調する者は彼を現代の自由思想家の先駆者、または啓蒙主義時代の祖と見なす。しかしこれに耐え得ない者たちは(13)、彼を「神学者の王」と称する。
彼のこのような名称は宗教であるキリスト教と哲学であるプラトン主義とを合一したところにある。キリスト教と古典文化を組み合わせキリスト教を哲学によって明らかにしようとした。「哲学者とは弁証論や物理学に通じている者ではなくて、偽りの空想を捨てて、清純な心で真と善とを追求する者である。哲学者とキリスト者とは、名称は異なっているが、本質は同じである(14)」これはエラスムスの言葉である。哲学という手段によって宗教を解明していく。こういう意味においては、すなわち方法論的意味において彼の信仰形態は哲学的であったといえる。
 また同時に、ここに彼のヒューマニスティックな面を見る。ふつう「ヒューマニズム」というと、人間性を擁護しその偉大さを追求して時には神や自然を排除してまでも、自己を自立的な自由の主体者であると一般的にはそう認識している。これがエラスムスにあてはまらないことはもちろんである。彼は実際敬虔なキリスト者であったし、その若い頃には「共同生活兄弟団」と呼ばれる団体の中で修道士風の教育を受けている。それゆえか神秘主義的一面も持っている。
 自由意志論で中庸を節度を尊び争いごとをきらうエラスムスが絶対に譲ることのできなかった一点は、人間の自律性である。人間は何ごとかをなしうる力を持っており、それがたとえ主原因でなく第二次的原因であるとしてもそれを抹殺することはできず、人間の自律性は認められなければならない。エラスムスが守り抜いたこの人間の自律性に、ヒューマニズムの祖といわれれるものを見い出すのであるが、はたしてそうであろうか。「自由意志について」のところで論述したが、エラスムスのいう自由意志は認められるべきものであって何も新しい概念、ましてや人本主義のように不必要に人間の自主性を述べているわけではないのである。もしこの点をとってエラスムスをヒューマニスティックな人物だと称したならば、律法をきちんと守っているキリスト者全員が、ヒューマニズムを有した人々となってしまう。彼のヒューマニスティックな要素を見い出すのはここではなく、キリスト教を哲学的に考察しようとした姿勢に見られるのである。これに関連して森有正はその著におもしろいことを書いている。「このようにルターにおいては自己の意志を束縛し、また自己がそれに対して責任をもち、自己の自由な働きの結果を保障する神が存在したのであるが、ヒューマニストであるエラスムスにとっては、その本質において、彼がみずからそれに対して責任をもちそれによって束縛されるべき他のもの、すなわち神はなかったのである。これは彼がカトリック教徒として神を信仰していたことと少しも矛盾しない。と同時に彼は自分の欲する自由を実現し、その結果を保障する手段方法をも持たなかったのである。彼はただ自己の内部における自己完成を図るほかに途はなかったのである。彼が古典学者として、本質的に書斎の人であったのは、このような意味をも持っているのである。つまり自己の外にある世界に働きかけるための保障も途も彼にはなかったのである(15)」ルターについては罪によってでなく、神の贈与によって賜った動機によってなす行為に対して、神はそれを保障する、と述べている。森有正氏はそれを束縛と責任という言葉で表しているが、ここで注目に値するのは、エラスムスにはルターにおける束縛と責任によって完結される神がおらず、彼の欲する自由を実現し、その結果を保障するものに自分自身をあてるしかなかったのである、ということである。哲学的信仰を持って生活していた彼にとっては当然と言えば当然の帰結である。確固たる絶対的な基盤を持ちえず、その位置には古典学者たる彼自身が存在している。もしくは古典そのものだといってもいい。再三述べたようにここに彼のヒューマニスティックな要素を見い出すのである。
 さて今度は彼の義認観についてみてみると、エラスムスは人間の善なる行ないによる功績に相対して神は報酬を与えると述べている。例えばぶどう園のたとえ(16)では労働に対して報酬が支払われている。つまり「契約にしたがってわざに対する報酬としてデナリが与えられている(17)」そのさい神が人間のわざにではなく信仰に対して報いると反論しても意味はない。なぜなら「信仰もわざであって、自由意志は信仰すべき対象に自分を向けたり、或いは離れたりするゆえに、そのかなりの働きを信仰においてもっている(18)」からである。神は人間の善なるわざによる功績を報いてくださる。すなわち義としてくださるのである。
 これは律法を行なって義とされる律法の時代、旧約の時代の義認論ということはできないであろうか。旧約の時代には、モーセの十戒から始まる律法を守ることが何よりの善であり、それが神の前に義となる生活であったのであるから。
 律法に「あなたは盗んではならない」という言葉があるが、その時代においてはこれを守ることが正しい生活であり善なることであったのである。この時に盗みたいという思いが起こってきても、盗まなければこれは義とされたのである。そこでは動機は問われない。また「姦淫してはならない」という言葉があるが、この時代にはそれをしなければ義とされたのである。ところがイエスの時には、すなわち福音の時代においてはそういう思いで人を見ることでもう既に罪であったのである。ここではあきらかに動機が問われている。エラスムスは動機にはあまり重きを置かない。あくまでわざの善悪を主張しそこに神の恩恵、刑罰が働くと考えているのである。
さてこの旧約の時代に義とされる世界での信仰の限界は“不条理なる神”にある。ここに大きな壁がある。「ある王が戦いで何の功績もたてなかった者に法外な報酬を与えたのに、熱心に働いた他の者たちは通常の俸給のほかには何ももらわなかったとする。たぶんこの王は不平を言う兵士たちにこう答えることができたであろう。『この男に対して私が好意から好きなように振舞うことが私の心にかなったからといって、それがお前たちに何の害を与えたと言うのか』と(19)」人間の功績に対して平等に報いてくれない神を表している。エラスムスは功績主義の上に立っているがゆえにそれに対して平等に報いてくださらない神はただ畏敬の念を持つ態度をとるしかないのである。
 律法の義は無意識圏の動機から発した意識圏の人間の意志に関与する。つまり人間の意識の場での行為の選択、あるいは思考の選択でもかまわないが、この次元において人間の自立的な行為が律法に則していれば義とされるのである。いわば律法を通した神との契約なのである。それゆえに人間が律法に則した行為をなしたにもかかわらず神がそれに不当な報酬または刑罰を下した時には、人間は不条理な神に不平を持ち嘆かざるを得ない。もちろんこれは即自的な契約ではない。ゆえにすぐに報いがなくても人間の耐え得るところであろう。しかしそれが度を越すと受け入れることが不可能となってくる。その逃げ場として「ああ深いかな、≪神の知恵と知識との富は≫…(20)」と畏敬の態度をとるのである。
 先の自由意志について言及したところでエラスムスの信仰観は、律法的、旧約的と述べたが、彼の義認論においてそれがより明らかになったのではないかと思われる。エラスムスは「自由意志」を律法次元から哲学的に述べていると見ることができる。

 注(13)一般的なエラスムス観である。「彼は原始キリスト教の教会的スコラ的発展と潮流の代わりに、原始キリスト教そのものの認識に貢献し、且つそれによって教会と宗教生活を再建し強める目的のために、新約聖書と教父の批判的著作の刊行に生涯の大部分を捧げた。啓蒙を阻害する敵たちによって攻撃され、貶められ、またソルボンヌ派によって異説として非難されたにも拘らず、彼は疑いもなく、誇張されたとはいえ彼の賞賛者たちによって神学者の王と呼ばれさえした。確かに彼は、たとえスコラ的教会的発展を遂げたキリスト教の熱心な信仰者ではなかったにしても、新約聖書と教父のキリスト教の熱心な信仰者であったといえよう」(相澤源七「エラスムスの自由意志論―宗教改革とヒューマニズム・再説―」『西洋史研究』東北大、復三、195?年、51ページ)
  (14)Desiderii Erasmi Opera Omnia edidit J.Clericus 10Bde Leiden 1703-1706 IV566 A (赤木善光「エラスムスのphilosophia christianaについて」『東北学院大学論文集』一般教育46、1965年、より引用)
  (15)森有正「自由と責任」『森有正全集』6、筑摩書房、1979年、285ページ
  (16)聖書マタイ伝20章1節
  (17)エラスムス、36ページ
  (18)上に同じ
  (19)エラスムス、79ページ
  (20)エラスムス、88ページ

エラスムスとルターの自由意志論争 8

   2、ルターの信仰的見地

 ルターにおいてはまず彼の義認論から見てみたい。彼の晩年の自伝的回顧の一節に次のような証言がある。
――はじめローマ人への手紙第一章を読んで≪神の義は、その福音の中に啓示され≫とあるのをみて、≪神の義≫という語を憎んだ。なぜなら私はすべての教会学者などのならわしに従ってこれを哲学的に、すなわち神がこれによって義(ただ)しくあり、そして罪人と義しくない者とを罰するところの所謂形相的(for malem)もしくは能動的(activam)の義として解するように教えられていたからである…最後に神の慈悲によって日夜思いわずらった後私の注意が≪神の義は、その福音の中に啓示され…これは、信仰による義人は生きる、と書いてあるとおりである≫という語の[内的な]関連に向けられるに及んで、私は神の義を、義人が賜物によって、したがって信仰によって生きることを得るその義のこととして解しはじめ、これが福音によって神の義が顕われるという意であり、すなわち義人は信仰によって生きるとしるされているように恵み深い神が信仰によって義たらしめてくださる場合の受動的な義なのであるということを悟り識ることができたのである(21)――
これはかの有名な“塔の体験”の記述である。ルターの修道院生活は罪との熾烈な闘いの生活であり、罪人としての自分がどんな償いの行ないをしても神に罰せられる罪人でしかないという不安から逃れることができず、毎日が苦しい精神的死闘の連続であった。そのような日々の中で神の恩恵がルターに注がれたのである。
 この証言の中で明らかに彼の義認論が転換されているのがわかる。「能動的義」から「受動的義」へと転換された。これはアウグスチヌスが放蕩生活から180度転換されて回心した精神の転換と同類のもの、すなわち新生体験と言われるものである。今まで罪の奴隷の中にあった人間が神の恩恵によりみ霊が降りてきてキリストの十字架による罪の贖いの体験がなされるわけである。
 これを少し詳しく見てみよう。“能動的義”とは自己から発したものを神の審判に委ね義とされることと思われる。人間の無意識と意識の境の壁から、意識側のできごとについてなされる神の審判、これはまさしく自由意志に対する義であり律法的義のことであると思われる。律法を守った行為によって与えられる義である。ルターは律法の言葉を守り修道士として完全に一点の非もない信仰生活をしていた。しかし自分自身の動機を見る時にはたしてこれが神の前に善と言えるものであろうか。すべてが偽善であり自己中心的な動機からなしているのではないだろうか。これは奴隷的意志論で執拗なほどに律法を否定した根拠となった部分である。
 動機はすでに自分の責任においてコントロールできる範疇のものでなく、“何ものか”によって贈与されるものであるわけで、本人の意志とはまったく関係ないところで決定されてしまうのである。そしてなおかつサタンの支配下にある我々は、常に罪ゆえにサタンからの贈与を受けているのである。これに対して神の刑罰が下るのならばそれこそ“不条理なる神”であり、暴君の下にいる無力な一市民として希望なき生を営むしかない者となってしまう。しかしこの動機における義は意識内を責任分担とする能動的義の範囲を逸脱している。それゆえに義なるものか不義なるものなのかわからないのである。不安とならざるを得ない。「神の前にたっては全く平安なき良心を抱いてみずからを罪人としてかえりみ、私みずからの贖いの行ないによって神の宥和を得られるという信頼にどうしても達し得なかったからである(22)」動機における人間の罪性を痛いほどに実感しながらもそれをどうすることもできず、ジレンマに陥った。今までの義認論では解決できない問題だったのである。能動的義は律法を守ることで善しとされる義であるため、 動機の善し悪しを考えない者でも感ずることはできる。しかし受動的義に至ってはそうはいかない。
 受動的義によって生きるルターは新生による罪の購いを次のように言っている。「キリストとたましいとは一体となり従ってまた両者各々の所有も幸運も不運、あらゆるものが共有され、キリストの所有したもうものは信仰あるたましいの有となり、たましいの所有するものがキリストのものとなる。そこでキリストのもっておられたすべての善きものと祝福とはたましいに所属することになり、同様にたましいに属していたすべての不徳と罪過とはキリストに託せられる。かくて今やあり難い交換と取り合いとが始まるわけである(23)」この体験を通して人間から罪が削除される。無意識下の動機からこの神の恩恵によって罪が取り払われるのである。サタンから贈与された動機がこのキリストとの婚姻によって神からの贈与にかわる。今まで散々苦しんだ自己中心的な動機、偽善を生み出す動機から解放されるのである。その代わりに神の愛に満ち、喜びに満ち、そして善に満ちたる動機が与えられるのである。今まで罪の奴隷となり動機次元の自由の全くなかった者が、罪の束縛から解放されそれと同時に義とされたのである。能動的義は人間の自由意志によるわざに相対するものであったが、この受動的義は人間の意志では及ばない所で一方的に神の恩恵によって義とするものである。人間としては何をなすこともできない。ただ信仰のみである。であるから人間からは確かに受動的なものであり神の一方的な恩恵である。イエス・キリストという媒介を通し、その十字架によって自分の罪が贖われているのである。これはまさしく新約の世界の福音的義といえるであろう。
 さてエラスムスの信仰手段、神へのアプローチのしかたは哲学的であったが、ルターのはというと、この義認論の論述でも明らかなように体験を中心とした信仰の確立、その時その時の体験、自分の信仰の土台として神に近づこうとしている、体験的信仰である。それゆえにエラスムスに批判された“逆説の神学”が出て来るのであろう。というのは、今持っている信仰基準の体験を説明しようとする時に、それを理論的に述べようとすると演繹的でなく帰納的なってしまう。それゆえに逆説的になるのであろう。先の自由意志の項目のところでルターの信仰観は福音的、新約的と述べたが、この彼の義認論においてそれがより明らかになったのではないかと思う。ルターは「自由意志」「奴隷的意志」について福音世界の次元から体験的に述べているのである。

 注(21)今井晋「ルター」『人類の知的遺産』26、講談社、1982年、81ページ
  (22)上に同じ
  (23)ルター『キリスト者の自由』23ページ、その前後にも次のような記述がある。「信仰は単にたましいが神的な言と等しくなり、すべての恩恵にみち自由に且つ祝福される(救われる)ようにするばかりでなく、更にたましいとして、あたかも新婦をその新郎にめ合わすようにキリストといったいならしめる…かくてたましいはひとえにその結納品すなわち信仰の故に己があらゆる罪過から潔められ、釈放され自由にされて、新郎であるキリストの永遠の義を恵み与えられる。かように富裕な高貴な義なる新郎キリストが貧しい卑しい悪い賎婦を娶って、あらゆる悪からこれを解放し、あらゆる善きものをもってこれを飾りたもうのだとしたら、それは何とすばらしい取り引き(家計)ではないか。その際に罪がたましいを滅びに陥れるということはありえない。なぜなら罪は今やキリストの負いたもうところとなり、キリストのうちに呑まれたもうからである」

エラスムスとルターの自由意志論争 9

結   論

 「自由意志」や「義認論」などを通して二人の相違を見てきたわけであるが、このような観点で今一度『評論・自由意志』『奴隷的意志について』を見てみると、微妙な論争の一言一言の食い違いに合点がいくのではないだろうか。例えばルターは律法をなすことは罪の何ものでもない。律法を守ることは善ではなくてかえって悪である。と言っているわけだが、これは彼が新約という次元から見ているために生じた解釈である。それゆえ旧約聖書の解釈を無理にまげている所が多々ある。例えば「これはちょうど次のように言おうとしたともいえる。すなわち『もしあなたが欲するなら』、『もしあなたが欲するようになれば』とは、言いかえれば、『もしあなたが神のもとで、神があなたを戒めを守ろうとする意志にふさわしくされるようなものであるならば、あなたは≪戒めを≫守るであろう』というように。こういう転義をもって、二つのこと、すなわち、私たちは何事もなしえない、しかし、何事かをなすとすれば神が私たちのうちにそれを働きたもうのである、ということの認識が与えられるであろう(1)」ルターの信仰次元から律法について言及するならば確かにこの通りであろう。罪に支配されている人間は律法によって罪を認識させられるのだと。自分の意識内の行為、思考の選択における人間の自由の立場から、無意識内の動機の中に罪の存在を見つける時に実感せざるを得ない、一つの律法の認識形態ではあろう。しかしこれが律法の第一位的な使命ではないのである。
 律法はエラスムスが言うように、ちょうど善悪の二股道にさしかかった人間にこっちの方向に進みなさい。善なる方向に進みなさいと言って正している言葉なのである。律法はこういう意味においてその本来の使命をはたしている。すなわち善なる道標としてイエス以前の、旧約聖書に出てくる人々の時代において人間を善へと正し、善なる行ないをさせようと導いたのである。
 旧約時代の律法と新約時代の福音とでの一番の違いは動機が入っているかいないかであると思われる。律法は行ないを正すための訓戒であったが、福音においては行ないだけでなく動機が問われる。たとえ行ないが善くても動機が悪ければそれは悪なのである。
 エラスムスとルターの、この信仰観の相違を示唆しているのではないかと思わせるような興味深いことをヤスパースが言っている。少し長いが、この自由意志論争自体とその背後にあるものを私たちに的確に教えせしめているように思うのでそのまま引用する。
――堕罪の後には、次のようなことが次々に継起する。第一には、神の立てる律法(十戒)が生じる。人間は、律法を充たそうとしてそれが不可能なことを知る。彼のもつ不満足のために人間は、自分の罪の状態と、絶望とをみてとるに至る。第二には、神が救済のためにつかわすキリストへの信仰が生じる。この信仰の中で、人は自分自身の意志を放棄して、恩寵が自分の罪の状態の中に入ってくることを経験する。第三には、愛が生じる。人間の信仰に対して愛が贈られ、その愛によって、罪からの本来的な救いが与えられる。第四には、律法の充足が生じる。それはもはや律法の当為を無益に充足することではなくて、愛の結果として律法を充足することである。かくて、自由意志が存在することになる。この自由意志は、それが愛するものであるが故に、正しいことを完全になすものであるが、しかし、自分の力によってでなくて、神によって成就されるものだという意識の中で、この正しい行為がなされるのである(2)――
堕罪後の四段階の過程は、時間系列を説明するものとしてのみ考えてもらいたい。人間はすべてこの時間系列の中にいるわけで、エラスムスとルターも然りである。ただ二人の立脚している時点が違っていた。ルターはこの時間系列の中での魂の相互継起にその意識のほとんどがいっていたわけであるが、エラスムスは教義的な公式化に、その内にあるものを公式的客観化することにもっぱらその意識がいっていたのである。それぞれ体験的、哲学的という言葉で本論において述べたが、各々その位置するところでそれぞれの働きがある。
 エラスムスもルターも協力し合いながら歴史に業績を残すということはなかったが、しかし二人が各自のスタンスで目覚しい活躍と後世への遺産をのこしてくれたのは言うまでもないことである。私はこの二人を聖書の時代区分に照らし合わせて、すなわち時間系列をもって別けたが、それは短絡的に人間の優劣に結びつくのではないことを申し上げたい。やはり近代幕開けの巨匠として、それぞれの場で違った方法により歴史に大きく貢献し、大きな遺産を残したのであるから。

 注(1)ルター、287ページ
  (2)ヤスパース、165ページ

まとめ その1

 もともとエラスムスはローマカトリックを改革したいという立場ですが、ルターほどの反教皇という立場ではありません。彼は教皇側からの要求でルター批判書『評論・自由意志』を書きます。それがこの論争の始まりになります。ルターはエラスムスに答える形で『奴隷的意志について』という本を書きます。この本でルターはけちょんけちょんにエラスムスを批判するのです。
 エラスムスはローマカトリックの腐敗、特に贖宥状に対して批判的ですが、だからといって教皇自体を否定しているのではありません。しかしルターは信仰の根拠は聖書にあるべきで教皇にあるべきでないと教皇の否定をもします。そして人間のわざからは何の善も生まれないと主張するのです。人間の意志で、もしくは考えでは、善を行なうことはできないと人間の自由意志(人間が自発的に善と悪を見分け行なう)を完全否定するのです。
 そこでエラスムスは人間は自分で善と悪を見分けることができ、それを行なう、行なわないという自由な意志を持っていると主張し、いろいろな聖書の聖句を使ってそれを証明しようとします。もちろん人間は罪人なので、その選択が正しいとは限らないけれど、しかし神さまはその意志を人間に与えられたと言います。
 たとえば、イザヤ書1章19節、20節には「もし、あなたがたが快く従うなら、地の善き物を食べることができる。しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎでほろばされる」、イザヤ書21章12節「・・・もしあなたがたが聞こうと思うならば聞きなさい、また来なさい」というような聖句は人々にどっちを選ぶのか?こっちを選ばないとあなたは滅ぼされるとまで言われながら、人に善を選ぶことを促している。こういう聖句は聖書の中に数え切れないほどたくさんあるとエラスムスは言います。そしてこうやって人が神の願いはなんだろうか、正しいことは何だろうかと考えながら善を選ぶと、神様はそれに褒美をくださる。だから人間の倫理観や道徳観が成立するのだと主張します。
 しかし彼はここで正直に「神さまはいつも公平に報酬をくれるわけではない。ある人においては悪行には目をつぶって小さな善行に大きな褒美が与えられ、ある人においては善行には目をつぶって小さな悪行に大きな刑罰が与えられる」というこの世の不平等、不条理を指摘します。けれども彼は、この不平等、不条理に「神の知恵や知識の深さを人間がどうこう言うものではない。人間の域を超えていることは、浅はかな知恵で詮索すべきではない。所詮人間にはわからないのだから」と言うのです。
 
 さてルターはエラスムスとは反対に人間は善悪を選ぶことができないと言います。それは人類始祖より罪の血統にあって、その心は悪魔に捕らえられて奴隷とされている。それゆえに神の恩恵がなければ善を選び行なうことはできないと言います。ですから簡単に言うと、荷馬車の馬のようなものです。荷台で運転しているのが神さまであれば馬はよい方向に行くけれども、それが悪魔であれば馬は悪い方向に行く。私たちはこの荷馬車の馬の立場なのです。それもいつもは悪魔に操られているけれども神の恩寵を受けた時だけ善を選び行なうことができるのです。もちろん日常生活のお金を使うとか何かを使うとか、そういうことにおいて人間は自由に使うことはできますが、神さまに関すること、救い滅びの事がらについて、簡単に言うと善悪の選択については、人間に全く自由意志はないと言うのです。
 エラスムスは不条理の神について述べますが、ルターは決定論へと話を発展させ不条理の神を消化してしまいます。この被造物は神さまが造ったのだからそれを神の働きによって動かし、それぞれ神が与えた能力によってその人間を用いることに何の矛盾があるのかというわけです。聖句でこれを表現しているのはローマ人への手紙9章15節以降の文章です。「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。・・・陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」
 ルターは人間の自律性を完全に否定してすべてを神に帰しています。それは人間が罪の奴隷的意志によって律法(人間がすべき一般的道理)をなそうとしているからです。ですから彼から見れば人間が善を選択し行なえるのはただ神さまの恩恵によってのみであり、人間の功績によるものではないのです。

 ここでヤスパースの言葉を引用させてもらいます。二人の自由意志についての考え方、特にルターがなぜここまで人間の意志を否定するのかが見えてきます。
「われわれの行為の自由の中には次のような根本経験がある。私は意志するが、しかし私は、私の意欲を意志することができない。私は私がそこから意志するものを根本的に知らざるを得ないが、私にはこの根本を生み出すことができず、決断しうるという能力を生み出すことはできない…幸福な気質や、人好きのする素質やそのほか自然に与えられたものは、何ら確固たる地盤でもない。だから私は、自分の意志においても、自由においても、また愛においても、端的に自由なのではない。私が私に贈与されたものとして、私は自由であることができ、私自身になることができる」
 簡単に言い直すと、何か行動するとき、するかしないかの決定は私が自由にできるけれども、行動を発想するときの動機は私が自由にすることができないということです。無意識に浮かんでくる意欲、感情、思いを自分で選択することはできません。ルターの言っている奴隷的意志とはこの動機のことを言っています。人は善いことを行っているようであるけれどその心の内は、利己心、欲心、自己顕示欲等々で行なわれているというのです。そして神さまの恩寵をもらったときに心が正され、善なる選択と行ないができるというわけです。
 しかしここで、「私たちはそんなに心根がくさっているのだろうか」と思われるかと思います。あとでルターがどんな修道生活をしていたのかについて説明をしようと思いますが、まず良心の深さの違いとして捉えるとどうなるだろうかと考えてみます。これはルター自身が良心の深さを三段階に分けているのですが、それを要約します。
 第一段階は社会的習俗の範囲です。伝統や社会的掟など、言い換えれば法律や社会のマナーと言ったところでしょうか。この深さをクリアしている良心はこれを守ろうとします。第二段階は道徳、倫理の範囲です。これはよく言う「良心の呵責」を感じる範囲です。必ず守らなければいけないものではありませんが、それをしないと自分の心が許さない善悪基準の範囲です。第三段階は人間が日常的に堕落した状態をたえず超えようと促す心の働きです。これは罪意識の有無によると言えるでしょう。
 これにそって見てみると、当時ローマカトリックが西欧世界を支配していた中で、贖宥状に反対の意を唱えていたエラスムスは第二段階の領域の人であることがわかります。そしてルターは強い罪意識に裏打ちされた確固たる信仰からいろいろなことを発言していますので、第三段階の領域の人であることがわかると思います。

 さてもう一つ浮かんでくる疑問はルターが言うように罪意識とは本当に良心の延長線上にあるものなのかということです。

まとめ その2

 今度はルターの罪意識を中心に彼の信仰観を見てみたいと思います。
 ルターの回顧録に次のような一文があります。
「はじめローマ人への手紙第一章を読んで≪神の義は、その福音の中に啓示され≫とあるのをみて、≪神の義≫という語を憎んだ。なぜなら私はすべての教会学者などのならわしに従ってこれを哲学的に、すなわち神がこれによって義(ただ)しくあり、そして罪人と義しくない者とを罰するところの所謂形相的(for malem)もしくは能動的(activam)の義として解するように教えられていたからである…最後に神の慈悲によって日夜思いわずらった後私の注意が≪神の義は、その福音の中に啓示され…これは、信仰による義人は生きる、と書いてあるとおりである≫という語の[内的な]関連に向けられるに及んで、私は神の義を、義人が賜物によって、したがって信仰によって生きることを得るその義のこととして解しはじめ、これが福音によって神の義が顕われるという意であり、すなわち義人は信仰によって生きるとしるされているように恵み深い神が信仰によって義たらしめてくださる場合の受動的な義なのであるということを悟り識ることができたのである」
 これはルターの新生体験である“塔の体験”の記述です。ルターの修道院生活は罪との熾烈な闘いの生活でした。修道士として非の打ちどころのない生活をしているのに、彼は罪人としての自分がどんな償いの“行ない”をしても神に罰せられる罪人でしかないという不安から逃れることができませんでした。
 人間は無意識のうちに神を自己の幸福のために用います。「人間を愛し、恵み、赦し、救う神であるがゆえにこそ人間は神を信ずる。信ずる時、信ずることへの代償的恩恵がなければならぬ。神は人間の幸福に仕えるために存在するのである。人間が神のために存在するのではなく、神が人間のために存在するのであり、そして幸福ゆえに神を信ずる。幸福こそいわば人間の神なのである。幸福を求めての神への信仰は、幸福が見事に裏切られた時神を棄てることもしうる」ルターはこの自己中心愛の中に自分の罪を見たのでしょう。神の前に善き行ないをしようとするのもよくよく自分を省(かえり)みてみると、その根底にあるのは神のためにではなく自分の満足のためにであったと思ったに違いありません。ちょうどイエスが律法学者やパリサイ人に向って言った「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯の外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず杯の内側をきよめるがよい。そうすれば外側もきよくなるであろう」という聖書の言葉のごとく、ルター自身、外側をきよめようとすればするほど、内側の醜さに呻吟したのでしょう。自分の意識内のことにおいては自分の肉に鞭打ちながらも善なることをなしたであろうに、しかし動機となると人間の力の及ぶところではなかったのです。まさしく“何ものか”によって贈与されたものを受けとるしかなく、そしてその“何ものか”はまさに悪魔であり、我々は罪の奴隷となっているというわけです。
「人間の意志は、両者(神と悪魔)の間に、いわば馬車馬のように、おかれている…いずれの馭者の方へ走り、いずれの馭者を求めるかを選択する力は、彼にはないのである」
 ルターののっぴきならない罪に拘束された自らへの嘆きです。神に御されれば何の問題も生じないであろうに、現実は一方的に悪魔に御されそれを阻止しうる手段はないのです。
 ではルターにとっての自由とは何だったのでしょうか。行為の選択ということにはもうすでに自らの自由を見い出せなくなってしまった彼は、その関心のすべては人間の動機にへと向かっていきます。その中で罪に捕らえれている自らの心が罪から解放されること、それがルターにとっての最大の自由でありました。それはこの世における名誉や地位、見栄もろもろのものへの固執からの解放であり、偽善に対する不安からの解放であり、絶対的善なる神に満たされているという安心感でもあったのです。
『キリスト者の自由』の冒頭における二つの命題、
 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない
 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する
 これはルターの自由の概念を端的に表しています。現実生活における外的、環境的自由、言うならば行為、営みの選択の自由はさほど重要ではない、否、何人に従属する僕でも然り。しかし精神はこの世の何ものにも従属してはならず、罪から来る誘惑に支配されてはいけないのです。動機から罪が抜けなければ、動機が清くなければ善とは言えないのです。ルターはこの解放感を“塔の体験”から得ました。(本文では新生体験についても説明を加えましたがここでは省きます)
 こうして見てみると、罪意識も「全き善なる方、清き方」の前に類まれなる敏感さを有する良心の働きとして生じているように思えます。
 エラスムスもローマカトリックの絶大なる勢力下で、自分の信じるところを述べたのですから、生きた良心を持った人物と言ってよいでしょう。しかしその彼を不快にさせるほどの信仰批判をしたルターは時代の傑出者です。稀代の良心の持ち主と言えるでしょう。
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Author:heban
東京都出身
43歳

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