いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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2002年ワールドカップ日韓共同開催 1

 忘れもしない2002年ワールドカップ。私はもちろんソウルにいた。韓国のフィーバーは大変なもので、韓国戦が始まるとみんながテレビにある部屋へ集まり応援する。もちろん仕事場でも同じである。
 私は日本の両親から「プルグンアンマ(赤い悪魔_韓国サポーターのこと)のTシャツを送ってくれないか」と言われて、ちょうど友だちとインターネットでまとめて買おうと思っていたので、家族の分も一緒に注文した。私だけでTシャツの注文枚数は8枚になってしまった。日本では韓国との共同開催は楽しく明るい話題だったのか、私もそんな友好的な思いで日本と韓国両方を応援していた。
 ワールドカップでの両国の応援は最初は順調であった(ように見えた)。しかしネット上では日韓の感情的なやり合いはすでに始まっていた。
 一緒に住んでいた友だち、チャンスクとセジンと私は韓国戦が始まるとプルグンアンマの赤いTシャツを着てテレビの前で応援する。会社で試合があるときは、会社の同僚とワイワイやりながら試合を見て、家に戻るともう一度彼女らとあのゲームはどうだったとか、誰がこうだったとか、素人なりの研究とネット上の分析をまた話すのだった。
 会社では韓国の試合は韓国人、日本人全員が見る。しかし日本の試合は日本人しか見ない。日本人は二人しかいないので、自然、二人で応接室の大型テレビを見ることになる。そして試合が終わり席に戻ると後ろからどうだったかと声がかかるので、「うん、勝ったよ」と言うだけだった。
 そんなある日、まだ総当たりの予選リーグが行われていた時、セジンから添付ファイルのついたメールが来た。毎日顔を合わせているのに何のメールだと思いながらあけると、ほとんどコメントはなく、添付されていたファイルは「日本の京都の新聞に掲載された問題記事」という韓国ネチズンたちの投稿文とその新聞のコピーだった。
 私は何でこんな記事を彼女が送って来たのかわからなかった。私はネチズンの投稿文と原文の日本語の記事を読んだ。記事は韓国チームについてだったか韓国との共同開催自体についてだったか覚えていないが、何しろ辛口の評論記事だった。私が見るにそれほど悪質でも感情的でもない記事で、ただ韓国に対して辛口だという印象しかもたなかった。しかしネチズンたちはそれをひどく歪曲して感情的になっていた。ひどい悪口を書き並べ、いったい日本人にどんなひどい仕打ちを受けたら、ここまで日本人を罵倒できるのかと思うような文句ばかりだった。
 私は彼女が私にメールを送ってきた真意を探る気が失せるほど、送ってきたこと自体に落胆してしまった。しかし家に帰るとセジンはまだ帰っていなかったので、チャンスクに言った。別に彼女は何の反応もしなかった。セジンが帰ってくると私はメールを受け取ったことを言ったが、それだけで話は終わってしまった。その内容を持って私に何か言うことはなく、かえって私は何で彼女がいわゆる「反日メール」を私に送ったのかわからないままだった。
(続く)
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2002年ワールドカップ日韓共同開催 2

 この頃あたりからか、職場でも何か変な雰囲気が漂っていた。私はいちいちネット掲示板で今どんなことがやり取りされているのかなど調べないので、彼らが日韓の感情的な罵倒合戦をもろに受けていることを知らなかった。そのうち直接的に、
「日本は負けた?勝ったの。なんだ。(残念!)」
 とはっきり言うようになってきた。言ってそそくさと立ち去るのだ。だんだん今までとは違う周りの雰囲気に気づき始めた。日本語を話し、日本との取引をしながらも反日感情を持ち、ネット情報にあおられるように日本憎しの感情が湧き上がってくるようだった。私はそれまでただノー天気に両国を応援していたが、だんだんとサッカーの応援自体に興ざめし始めてきた。
 家に帰った時にチャンスクにそれを話すと、彼女までも、
「今まで知らなかったの。韓国人は日本人が嫌いなんだよ!」
 とこれ見よがしに言い返してきた。私は話を切った、というよりショックを受けて何も言えなかった。いったい私が何をしたというのか。「私はあなたたちみたいに『韓国負けろ』とは一度も思ったことはない。なのにあなたたちは『日本負けろ』と公言し、あたりかまわず日本人にぶつける」 私はそう思うと悔しくなってきた。「なんだこの韓国人たちは!」 それを私と全く関係ない人が私に言うなら、この人は何か日帝時代のつらい思いや傷があるのかと考える余裕ももてる。また職場までなら我慢できる。(さすがに私の直接の上司は一言も言わなかった。仕事上我慢していたのかもしれない) それほど親密な仲でもないから、私も今さら韓国人が日本人嫌いと言っても驚きもしない。しかし問題は一緒に生活をして過ごしている身近な人が私にそう言ったことだった。それがひどくつらかったしとてもショックだった。私は日本人だ。私が嫌いだという事と同じだ。いつもはそんな素振りはないくせに、韓国日本という民族、国家レベルまで概念を広げるとたちまち「お前は嫌いだ」となるのである。それを私に直接言ったことがショックだったのだ。
 身近な人に裏切られたような気分だった。セジンは私に直接言えなくてメールを送ってきた。チャンスクは私がそのことに不満を持つから、彼女の気持ちと自分の思いを言ったのだ。
 それから考え込んでしまった。というより悩み込んだ。友情や信頼とはなんだろうか。民族感情とは。史上初の共同開催をしながら片方は両国を応援し、片方は自分の国だけならまだしも、はっきりとその国に向って負けろと感情をむき出しにしている。一緒に開催している感覚はまったくない。自分だけが勝てばいいのではなく、日本が負けなければいけないのだ。
(続く)

2002年ワールドカップ日韓共同開催 3

 私はサッカーの応援どころではなくなった。私の周りにいる日本の友人に聞いた。いろいろな人に聞いた。みな自分と同じように、韓国人に憎しみをぶつけられるような体験をしたのではないかと思ったからだ。しかし聞いた人たちはみな、私ほど深刻ではなかった。「そこまで深刻に考える必要はない」とか、「まあ、いつものことじゃない」と言った反応だった。旦那さんが韓国人の日本人の奥さんも「うちではあんまりそんな話はしないかな」と言った感じで、誰も私の悔しさを共有できそうな人はいなかった。
 家で私は何んでもなかったように振舞いながら着実に言葉数が減った。街中では、
「タタンタ、タンタン テーハミング!」のかけ声とともに、時折
「イルボン チラ(日本負けろ)」の声も聞こえる。
 ベスト16が出そろって、日本も韓国もベスト16に入ったところからその声は大きくなっていった。
 ちょうどその頃、スンシという語学堂で一緒に学んだ在日韓国人の友人がソウルの私たちのうちに遊びに来たいという。彼女とはチャンスクも入れて3人で語学堂時代によく遊んだ仲だったので大歓迎だった。スンシはスポーツが好きなうえに日韓共同開催のワールドカップとあってひときわ喜んでいるように見えた。彼女は日本で応援して、まず釜山に行ってサッカーの試合を観戦し、その次に大邱で試合を応援、そしてソウルまで上がってくるという熱の入れようだった。
 スンシが私たちの家に来た。最初、当たり障りのないワールドカップの話で盛り上がった。彼女もソウルでは忙しくあちこちを歩き回った。
 彼女が来て何日目だろうか。私はダイニングキッチンでスンシと夕飯を食べながらいつもと同じようにワールドカップの話をしていた。そこにチャンスクやセジンも集まって来て、いろいろな話になっていった。私は冗談を言うように軽く、
「彼ら(韓国人)は日本負けろと言うんだよね。日本では韓国負けろって言っているの?」と聞いた。
 スンシは直接は答えなかった。チャンスクとセジンはそれに反論するというより、そんなの当たり前だという趣旨のことをあっさりと言った。重い空気ではなかったが、私がその話をふっておきながら、話が進むうちにだんだんと悔しさがこみ上げてきた。
 突然、私は泣き出してしまった。そして自分の部屋に入って行った。びっくりしたスンシも私のあとを追って部屋に入って来た。そこで私は今までの胸に詰まっていたすべてをスンシに話した。彼女なら韓国人の言い分だけでなく日本人の言い分もわかってくれるのではないかと思ったのだ。そして彼女の答えを聞きたかった。
 話がまだ終わらないうちに、いつもと違う私の様子にうろたえて、私の部屋に入って来れないでいたチャンスクとセジンがおそるおそる部屋のドアを開けて、
「ごめんね、オンニ。そんなに思いつめているなんて思わなかったんだよ」とボソボソと言った。
 私はそれを無視してだまっていた。バツが悪くなり二人が首をひっこめると私は静かにドアをしめてまた話し続けた。そして話は終わたが、スンシは何も答えなかった。とちょうどその時またもやドアが開いたかと思うと今度はチャンスクが、大声で、
「自分は日本の味方でもなく、韓国の味方でもなく、オンニの味方だ!」
 と勢いよく言い放って、バタンと自分でドアを閉めた。
 私はスンシに今までのことをすべて話して少し気分が落ち着いて来ていたが、彼女の言葉にずたずたになっていた信頼感は少しずつだがよみがえろうとしていたようだった。
 その後のことはよく覚えていない。テレビをつけてテレビを見たような気がするが、一緒に見たのか別々に見たのか覚えていない。しかしそれから私は街中で、
「イルボン チラ」と誰かが叫んでも以前のような胸の痛みは感じなくなった。
「あなたたちは日本人の友だちがいないからそんなことを言っているのだ。親しい、信頼しあえる友だちがいないからそんな軽々しく人を罵倒する言葉をはけるんだ」と、かえって韓国という枠を越えられない小さい存在のような印象を持つようになった。私はひそかに友人を誇らしく思えるようになっていた。私には国を越えた友だちがいるんだぞという自負心が生まれているようだった。
(続く)

2002年ワールドカップ日韓共同開催 4

 家の外ではベスト16に韓国が残り、それも強豪を下しての16強だったために相変わらず
「タタンタ、タンタン テーハミング!」の声とラッパとクラクションがなっていた。
 あの事件からチャンスクはテレビでサッカーの試合を見なくなった。セジンもほとんど見なくなったが、韓国戦があるときだけはセジンがテレビをつけるので、チャンスクも横で見ていたようだった。私は自分の部屋で見ていた。
 ある夜3人で気分転換に散歩に出た。裏は小高い丘でそのすそに私たちの住んでいるマンションがあるので、夜になれば人も車も少ないはずだが、ワールドカップが始まってからは夜になると人々が外に出て、韓国チーム躍進の興奮を例の「タタンタ~」で発散するのだった。
 その日もいつもは静かな通りに時折若者たちが運転する車が通り、「タタンタ~」とクラクションをならしている。あちこちで人々が散歩をしながら話をしている。
 ちょうど交差点の向こう側から大きな声で交わしている会話が聞こえてきた。
「日本が負ければ気持ちいいのに」と言う言葉が聞こえてくる。
 すると一緒にいたチャンスクとセジンは
「オ、オットケ、、(あ、どうしよう、、)」と困ったように顔を見合わせている。
 私が聞いてまた胸を痛めると、彼女たちなりに私に気を使っているのだ。私はまったく気にならなかった。別に何ら私はコメントしなかったが、前ほど気にならなくなっていたのだ。
 日本がトルコに負けた試合を私は会社の応接室で見た。これと言った感想はなかったが、なんか淡白な試合だなと思っただけだった。会社の同僚はもちろんうれしそうだった。私たちに直接言って来る性格の悪い人も若干1名いたが、私は心から堂々としていた。本当に気にならなかったのだ。
 私たちが会社に行ってる間にスンシが日本に帰った。どこで買ったか音符の飛び交うカードを私たち3人に残していった。それには「ハーモニーという“和”が大切で美しいのだということがわかった。私も周りにいる友人、私とかかわり合う人たちを大事にしたい」と書いてあった。私たちを反面教師にそう思ったのか、私たちの間にハーモニーがあったということなのか、微妙に意味の取りにくい文章だったが、私は3人の中にはハーモニーがあるのだといいように受け取らしてもらった。
 こうやって私にはとても長かったワールドカップが終わった。
 またこれには後日記があるのだがそれはまた改めて書くことにする。
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プロフィール

Author:heban
東京都出身
43歳

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