いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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丸山浩路「本気で生きよう!なにかが変わる」1

 ある日、何気なく古本屋で買ってきた本があります。
「本気で生きよう!何かが変わる」という丸山浩路さんの書かれたエッセイです。NHK教育テレビの手話ニュースのキャスターの人といったら一番わかりやすいでしょうか。私も名前だけではどなたかわかりませんでしたが、裏表紙の写真を見て、時折テレビのチャンネルを変えるときに手話ニュースで見かける方であることがすぐわかりました。なぜチャンネルを変える一瞬の出来事で丸山さんの顔まで覚えているかというと、手話にしては表情が豊かでミュージカルのようなオーバーランゲージで手話をするからです。そしていかにも楽しそうに目を輝かせながら手話で語りかけるのです。
 もう少し丸山さんのことを調べてみようと検索してすぐ、去年の12月3日に心筋梗塞でお亡くなりになられたことを知りました。
 詳しく存じ上げているわけではありませんが、やはりご本人の生きた文章を少しでも読んだ者としてはショックを受けます。
 それは丸山さんの本のキャラクターが、とても積極的で明るく人々に力や希望を与える温かいパワーに満ち溢れた人であったからです。
 
 今日、久しぶりにその本を開き、思いがけなく著者の亡くなったことを知るとは、、急に何か厳かな思いにさせられ、命のはかなさを感じさせられます。
 しかし本の中の丸山さんは今でも生き生きとしていらっしゃいます。そしてまだまだ私たちに強くメッセージを送ってくれます。
私の一番感動したお話を明日アップいたします。

祈り
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丸山浩路「本気で生きよう!なにかが変わる」2

  "真夏のサンタクロース"

 耳の聞こえない両親のもとに生まれ育った春田稔君。私のカウンセリングルームに初めてやって来たのは、あと1ヶ月で6歳という時でした。
 さっそく私は後ろを向いている彼に声をかけました。
「ねえ、名前は?」
彼は質問に答えるどころか、振り向きもしません。私は近づいて両肩に手をかけ、もう一度聞きました。
「名前はなんと言いますか?」
 と、彼は私のほうを振り向き、短い手話をしてみせました。彼もまた耳が聞こえないことに、私はこのとき初めて気づいたのでした。
 私を呼ぶかのように母親は短い声を発すると、手話で次のように説明しました。
「コノ子ハ 生マレツキ 耳ガ 聞コエマセン。中学1年生ノ オ姉チャンハ 耳ガ聞コエル ケレド コノ子ハ マッタク 聞コエナイノデス」
 私は今度は彼をきちんと自分のほうに向かせ、顔をのぞき込むようにして再度、聞きました。
「名前は?」
 彼はニッコリとして指文字で答えました。
「ハ・ル・タ・ミ・ノ・ル」
 しっかりした指文字の表現。打てば響くような反応の仕方。そして眼差しの明るさ。私は母親に伝えました。
「心配することはありませんよ。ご両親が聴力障害ということと、本人も耳が聞こえないということで、少し幼いということはあるかもしれませんが、カウンセリングが必要なほどではありません。学校に行けば、1、2年ですぐに取り戻せるはずです」
 しかし、母親は真剣な表情で訴え続けます。
「今日ハ オトナシイ。普段ハ モット アバレル。耳ガ 聞コエナイ 親ダカラ コソ 子ドモハ シッカリ 育テタイ。親ノ 言ウコトヲ 聞ク 良イ子ニ ナルヨウニ 強ク叱ッテ クダサイ」
 私はちょっと困ってしまいました。
「悪くもないのに叱るなんてことはできませんよ。ただちょっと幼いというだけなんですからね・・・。うーん、わかりました。こうしましょう。教え諭すとか、叱るとかいうことはできませんが、友達になるということで一週間に一度か二度、ここに遊びに来させてください」
 こうして何とも妙な約束が交わされ、大の男と6歳の子どもとの友達付き合いが始まったのでした。
 私は彼の話かけには必ず相づちを返し、話しかけるときは本当にわかっているかどうか、目を見て判断するようにしました。そして、時には街に出てレストランで食事をしたり、サウナにも行ったりして、文字どおり、裸の付き合いもしました(サウナは彼の一番のお気に入りでした)
 そんな男同士の友達関係を続けて1年半、私の目には彼のそれなりの成長が見えてきました。彼はいつも私にこう言って胸を張りました。
「僕ハ 驚カナイ。必ズ 目デ 見ルカラ 驚クヨウナコトハ 何モナイ。ビックリシタリ 驚イタリ スルノハ 弱虫ダ。丸山サンモ 僕ヲ ビックリ サセテ ゴランヨ。絶対 僕ハ 驚カナイ カラ。モシ ビックリ シタラ 僕ハ 丸山サンノ 言ウコトヲ 何デモ キクヨ」
 これは面白いゲームでした。私は何とか彼を驚かせて“子分”にしようとするのですが、耳が聞こえない分だけ神経を張っているのでしょうか。事前に私の行動が読まれたりして、彼をびっくりさせるのはなかなか難しいことでした。
 暑い夏の昼下がり、私はカウンセリングルームのドアの脇に脚立を置き、その上に上がって彼が来るのを待ち伏せしました。しかも赤いダボダボの服に白い髭、大きな袋を背負った季節はずれのサンタクロースの格好をして。
 そして、彼がドアをノックして部屋の中に入ってくるや、脚立から彼に向ってワーッと飛び降りたのです。突然、目の前にサンタの姿をした何者かが飛び降りてきたのですから、彼はまさに驚天動地。「ヒェー!」と悲鳴をあげて、のけぞってしまいました。
 大成功、大成功。彼は瞳を大きく見開いて、両手で口を押さえていました。そして、その場違いなサンタが私だとわかると、
「ビックリシタ、ビックリシタ!」
 と声をあげて、しがみついてきたのです。このときから、私は自分の言葉が彼の心の中にまっすぐ入っていくのが、手に取るようにわかるようになりました。私と稔はまさしく無二の親友ともいえる存在になったのです。
 そう、あの忌まわしい事故が起こるまでは・・・。

 ある日の深夜、自宅の電話がけたたましく鳴り響きました。受話器を取った私の耳に飛び込んできた突然の知らせ。
「エッ!本郷台の春田さんが亡くなった!? いったいどうして・・・」
 あろうことか、稔の家が火事で焼け、父親と姉が焼死。そして、ベランダから飛び降りた稔と母親は、救急車で病院に運ばれたというのです。
 私は急いで病院に駆けつけました。そして、そこで私が目にしたのは、意識不明で危篤状態に陥った母親と、全身に白い包帯を巻かれ、昏々と眠っている稔の姿でした。
 三日後、母親が意識を取り戻すことなく、息を引き取りました。稔は知らないうちに父と母と姉を失ってしまったのです。たった一人取り残されてしまったのです。彼はまさしく天涯孤独の身となりました。
 それから一週間ほどの間、私のカウンセリングルームの電話は鳴り続けました。
 稔が私に会いたがっている。彼には両親と姉が火事で亡くなったことはまだ知らせていない。それを私に伝えてほしい―――。
 しきりにかかってくる電話は、私にそのような内容を伝えるものでした。
 しかし、私にはそれができませんでした。どう考えても、稔に事実を伝えることができなかったのです。
「オ父サンハ?」
「亡くなった」
「オ母サンハ?」
「亡くなった」
「オ姉チャンハ?」
「・・・亡くなった」
 あの稔に私の口からそんなことを言うことはできない・・・。私には彼と顔を合わす勇気がなかったのです。そして、電話がかかるたびに、「予定が入っているから」「忙しいから」と理由をつけては、病院に行くことを断り続けたのでした。
 稔の担当医師は私に言いました。
「こういうときこそ、励ましの言葉が必要なのです。稔君は丸山さんを慕っています。彼を救えるのはあなたしかいません。会わないなんてむごいではないですか。かわいそうではないですか」
それでも「できません」と答え続ける私に、医師は非難の言葉を投げかけました。
「あなたは心理カウンセラーで、セラピストで、手話通訳者で、しかも稔君の友達でしょう。稔君に家族の死を知らせられるのは、あなた以外にいないではありませんか。それを断るとはいったいどういうことですか!あなたはそれでもカウンセラーなんですか?セラピストなんですか?あなたにそんな資格はありません!」
 私は受話器を握り締めたまま、ただ頭を垂れるよりほかありませんでした。そのとおりだからです。医師の言うとおりだったからです。
 私は彼が泣き叫ぶのを見たくなかったのです。泣き叫ぶ声を聞きたくなかったのです。
 結局、私は稔に会うことができませんでした。

 私は心理カウンセラーを辞めました。セラピストも辞めました。手話通訳の仕事も辞めました。すべての相談機関から身を引き、私自身のカウンセリングルームも閉めました。
 あのとき、稔に会うことができなかった自分。逃げて逃げて逃げとおした自分。その自分がどんな人間なのか思い知った以上、どうやってこれまでのようにカウンセラーや手話通訳の仕事を続けることができるでしょう。自分にはその資格がない。そのことが痛いほどわかったからこそ、辞めるよりほかになかったのです。
 43歳。思いがけない転機の年となりました。私はこれまでのすべてを捨て、ゼロから人生を行き直すことになったのです。

 あの悪夢のような火事から3年たった冬の日のことでした。
 12月半ば、私はテレビの取材の仕事が入り、東京葛飾区にある耳の聞こえない子どもたちの施設、金町学園を訪れました。
 ここでは、いろいろな事情で親元を離れざるを得なかった子どもたちが共に暮らしています。たとえば親の離婚や再婚などで、家族と一緒に暮らせなくなった子どももいます。あるいは「うちの家系にはこんな障害の血はない」と嫁ぎ先から責め立てられ、母親が泣く泣く子どもを預けてくるといった場合もあります。
 しかし、金町学園に暮らす子どもたちは決して泣いてばかりいるわけではありません。いえ、彼らは暗くふさぎ込んでいるどころか、いたって明るく、実に健気に毎日を送っているのです。
 そこで学園を訪問して子どもたちにインタビューをし、その姿を紹介しようというのが、このときのテレビの企画でした。12月20日過ぎの放映予定ということで、私はサンタクロースの姿で学園を訪ねることになりました。
 その日の園内の食堂には子供たちがたくさん集まっていました。テレビカメラと照明のまぶしい光が場の雰囲気をいっそう盛り上げ、子供たちはかなり興奮ぎみ。そこにサンタの姿をした私の登場です。手拍子の中、私は一人一人の子どもと握手をし、頬ずりをし、そして大きく膨らんだ袋からプレセントを手渡していきました。子どもたちのはしゃく姿に、サンタの私も気分は上々です。おどけたポーズをしながら、子どもたちの輪の中を満面の笑みで歩いて行きました。
 と、そのときでした。食堂の左側のほうで何やらチラチラするものに気がついたのです。
(ああ、こっちにも来てくれと手を振っているのかな)
 そう思ってひょいと目をやると―――
 あの火事の一件以来、会うことのなかった稔がテーブルの上に乗り、こちらに向かって一生懸命手を振っているではありませんか。
「ミノル・・・」
 私は驚きで思わず顔がこわばりました。言葉を失いました。そんな私に稔はニコニコ笑いながら手話で話かけてきます。
「ボク、ボク。覚エテ イル?ボク、 ボクダヨ」
 私は心の中で叫びました。
(会いたくなかった・・・・・稔には会いたくなかった。このオレがいったいどんな顔で稔に会えるというのだ!)
 私は彼と目が合わないように視線をそらしました。が、稔は私が向くほう、向くほうに先回りして手を振り続けるのです。彼は私との再会を喜んでいるようにも見えました。しかし、私には稔に合わせる顔などありません。素直に再開を喜べるわけがなかったのです。
 そんな私にとっては幸いというべきか、その日は撮影スケジュールが立て込んでいました。彼と個人的に話を交わす間もなく、学園での時間はあわただしく過ぎていったのでした。
 むろん、私の頭の中からは稔のことが片時も離れることはありませんでした。しかし、
「できることなら、このまま会わずに立ち去りたい」 私はそんな気持ちで学園での一日を過ごしていたのです。
 そして、学園全体が静けさに包まれた夜の9時過ぎ、子どもたちの眠る姿をカメラに収めて、撮影は終了しました。私はスタッフと共に職員室で先生方とひとしきり懇談すると、学園を後にすることになりました。
 外に出ると、いつの間にか降り出した小雨。冬の寒さに思わず身震いした私たちは、車に乗り込み、さあ出発しようとエンジンをかけました。そのときです。外からなにやら叫び声が聞こえてきたのでした。
 学園の廊下の奥からバタバタ駆けてくる足音がしたかと思うと、誰かが車に体をぶつけるようにして窓に取りすがりました。そう、あの稔でした。
 彼は長い間ずっと廊下の柱の陰に隠れて私を待っていたのでした。待ちきれずにウトウトしていると、床を伝わってくるエンジンの響きとガソリンのにおいにハッとして、飛び出してきたのでした。
 子どもたちが寝静まった園内、小雨が降る冷たい夜に、私をじっと待っていてくれた稔。その稔を前に、私は車の窓さえ開けることができませんでした。
(稔、許してくれ!私が悪かった。君が一番つらいときに逃げ出した私は卑怯者だ。勘弁してくれ!どうしてボクを見捨てたのかと恨んでいるだろう。怒るのも当然だ。悪かった・・・許してくれ・・・)
 私は心の中でひたすら詫びながら、両手を合わせ、首を左右に振ることしかできませんでした。
 稔は車のガラス窓を激しく叩き、そしてそんな私に向かって手話で語り始めたのです。
「ボクノ コトハ 気ニスルナ。心配シナクテイイ。ボクハ 大丈夫。心配スルナ。ボクハ ヒトリデモ 大丈夫!」
 私は心が震えました。稔の言葉に脳天を割られた思いがしました。
(稔!お前はオレと比べたらずっと不幸なんだぞ。オレはお前よりずっと幸せなんだぞ。何倍も何十倍も幸せなんだぞ。それなのに不幸なお前が幸せなオレに『心配スルナ!気ニスルナ!大丈夫!』だと言うのか!?)
「稔・・・ミノル・・・」
 私の口から出てきた言葉は彼の名前だけでした。それ以上、何もいうことができませんでした。そして、やっとの思いで、
「車を出してください、出してください」
 と運転席のスタッフにお願いしたのでした。
 静かに車は動きだしました。稔は小走りに駆けながら、何度も何度も窓を叩きました。笑顔で「心配スルナ、気ニスルナ」との手話を繰り返しながら・・・。
 雨が彼の顔を濡らしていました。車はスピードを徐々に上げていきました。それを裸足のまま追いかけてくる稔・・・。
 私は顔を上げることもできず、座席に座ったまま泣いていました。
「先生、後ろ!」
 スタッフの声に促され、ようやく振り向くと、そこには涙をぬぐいながら大きく手を振り続ける稔がいました。冬の雨の中、立ち尽くす彼がいました。そして、その姿はやがてにじんで見えなくなりました。
 稔が、幼い稔がひとりぼっちになった稔が、私を許してくれた。こんな私を許してくれた。
 人を許す――。
 稔はそれを私に教えてくれたのです。
(稔、ありがとう・・・ありがとう・・・)
 私は心の中でただただつぶやくだけでした。

 丸山浩路「本気で生きよう!なにかが変わる」より抜粋

丸山浩路「本気で生きよう!なにかが変わる」3

 感想を少し、、、 

 まず何よりも圧倒されるのが稔君の健気さ、まっすぐさです。丸山さんと交わし深めていった友情を露ひとつだに疑わないのです。心の底から交わしたきずなを彼は信じそのまま持ち続けていたのです。
 苦しい時に何の助けの手も差し出さない丸山さんに対し、彼は裏切られたと思っても仕方ない状況であったはずなのに、彼は全くそんなことを考えないのです。かえって丸山さんは自分のことを心配しているはずだ。だから安心させてあげなければいけないと彼を励ますのです。
 何と純粋でまっすぐなのでしょうか。深くつながった心を疑わない心情の強さと清さです。子どもの純粋さだけでない、心の強さと清さを感じます。
 当然責められるだろうと思っていた丸山さんは想像だにしなかった稔君の行動にうつむいたまま涙を流します。3年前の稔君への裏切り行為が相当胸に突き刺さっていたのでしょう。自分を許してくれた、稔がこんな私を許してくれたと深い安堵を得るのです。
 このような稔君の行動は誰が想像できるでしょうか。私は稔君の「心配するな。気にするな。俺は大丈夫」という言葉に泣いてしまいました。何度読んでもそこで泣いてしまいます。彼はどれほど無垢で深い心の持ち主なのでしょうか。

 そしてもうひとつ思うことは、著者の丸山さんが、自分が人を裏切ったこと、それもたった7歳の幼い男の子を裏切った恥ずかしい話を、正直に何のごまかしもなく書いていることです。いや、かえって自分の醜さをさらけ出すかのように自分に容赦なく書いています。どれほど稔君に対する自分の態度にご自身が叩きのめされたか、そしてその後の稔君の言葉に救われたのかがわかります。
 人の心の奥深さ、美しさ、いさぎよさに読者の心までがゆすぶられます。自分を正直に見つめて、真剣に生きていらっしゃった姿が、このお二人の姿がまぶしく感じられます。

 丸山さん、ありがとうございました。
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プロフィール

Author:heban
東京都出身
43歳

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