いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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良心の呵責 ~ 弟とシャーペンの芯

 私が初めて良心の呵責を覚えたのは記憶にある限りでは小学生の時だ。
 父親は私と弟を連れて時折パチンコに行った。ある日父親の台が大当たりしてたくさんの景品と替えられる時があった。(この頃はまだ現金に替えるシステムはなかった) いつもはチョコレートと取り替えるのだったが、その日はもっと高い物と交換していいというので私はシャーペンがほしいと言った。まだ小学校低学年だったので誰も学校でシャーペンなんて使っている子はいなかったが、私はそれがほしくてしかたなかった。初めてシャーペンを手にすると、何かハイソサエティーの仲間入りでもしたような、急にかっこいい大人になった気がした。
 それから少したって私の誕生日が来た。弟はお年玉を集めたのだろうか、自分のお小遣いで誕生日のプレゼントを買うという。弟はまだ保育園に通っている年なのでお小遣いはもらっていない。
 私は弟が一人で店で買い物をするのが心配になり一緒に目的の文房具屋さんへ行った。店に一緒に入ったのだが、弟は何を買うのかを言わない。まだ秘密だと言って私に「店の外で待っていて」と言う。それで私は店の外で待っていた。弟はすぐ小さな長細い包装紙を持って出てきた。
 私は中身がひどく気になった。なぜかといえばその時の私は無性にシャーペンの芯がほしかったので、弟がそれを私の代わりに買ってくれないかなと思っていたからだ。しかし、袋の大きさからするとシャーペンの芯ではない。私は家に帰る道すがらどうにか袋の中身をつきとめて、弟にシャーペンの芯に買い換えてもらうよう説得できないかと頭を働かせた。
 道を歩く保育園生の弟の横にくっつきながら、何気なく袋の中身は何かと聞いてみる。しかし弟は初めてのプレゼントという何か誇らしい思いがあるようで、開けるまでは言わないと言う。すたすたと歩く弟にそれでも執拗になおかつていねいに「中身をあれかこれか」と聞いてみる。そしてやっと弟が中身を言った。それはボールペンだった。おそらくどうやってためたのかはわからないが100円玉を持って店に行ったようだった。しかし100円あれば充分シャーペンの芯が買える。そこから私は物欲に目がくらみ、お姉ちゃんのために初めてプレゼントを買った健気な弟に、自分の好きな品物に買い換えさせる切りくずし工作をはじめるのだ。
「ボールペンか、ボールペンもいいけど、シャーペンの芯もいいよ」
「お姉ちゃん、シャーペンの芯がほしかったんだけど、、、」
 何と身勝手なお姉ちゃんだろうか。お姉ちゃんは小学生だったからお小遣いをもらっていた。自分で買えばいいだけの話なのだ。しかし弟はまだお小遣いもなく、どこでためたか少ないお金を自分のために使うのでなく、お姉ちゃんのプレゼントを買うと言って文房具屋まで来たのだ。それを自分の好きなものに買い換えさせようとしているのだから。。。
 しかし気のやさしい弟は私の頼みを聞きいれ、家に帰る道を途中で引き返して文房具屋でシャーペンの芯と換えた。私は喜び勇んで店を出た。一緒に出た弟に私は必死に自分が喜んでいることを伝えようとしていた。おそらくすでに弟に申し訳ないと思っていたようだ。
 弟はまだ小さくて小学生の私の後をくっついて真似をしているような年だ。しかしその時だけは私の後ろでなく前をしっかりと文房具屋に向って歩いていた。弟の中にはお姉ちゃんのプレゼントを買うという強い思いがあって、すたすた一人でも大丈夫だというように歩いていたのだ。その気丈な姿が今でも思い出される。だから私は買い換えた後に胸が痛んだ。弟の気持ちを踏みにじったような気がした。彼がプレゼントにボールペンを選んだのはきっと私がシャーペンを大切にしていたからだ。それを見て幼いながらに似たようなボールペンをあげたら、また同じように私が喜ぶと思ったに違いないのだ。
 このことを30年近く経ったある日、弟にその話をした。すると弟は一言、
「そんなことあったっけ。全然覚えてねーな」と言った。
 やさしく気丈な弟はきっとその時、お姉ちゃんが喜んでくれたから「よし」と思ったのだろう。何のわだかまりもなく記憶のかなたへ流してくれたのだから、私が「ありがとう」というべきかもしれない。
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故郷の徳之島

 私が生まれ育ったのは東京だが、両親の故郷は鹿児島の南にある奄美諸島の一つ、徳之島というところだ。沖永良部島や与論島は観光地としても名が知られている中で、徳之島はそれほど観光地化されていない。猛毒のハブが出るせいだろうか。名前が世間に出たのは、五つ子ちゃんと世界一の長寿だった泉重千代さんと、、、最近だとマラソン選手だった高橋直子選手の合宿地として使われた時だろうか。
 故郷はどこですかと聞かれると、「生まれたのは東京ですが、親戚は徳之島にいます」という。両親は徳之島の同じ町の出身で、地元で結婚式をあげて東京に出て来た。
 母方の祖父は農協の理事をしていたこともあり、引退後は町議会議員をしていた。東京にいる私たちも4年に一度、夏にある町議会議員選挙におじいちゃんを応援しに家族みんなで島へ帰る。
 この久々の里帰りは両親よりも子どもたちのほうがはるかに楽しんでいた。
 まずは何と言ってもきれいな海と空と見渡す限りのサトウキビ畑。暑い日差しが射すが、日陰に入ればけっこう涼しい。それにお年寄りが多いせいか時間の流れがゆったりとしている。海で泳ぐのも楽しいし、釣りをするのも楽しいし、車で走っても自転車で走っても楽しい。ボーとしているのでさえ気持ちがいい。
 親戚まわりをすれば、東京から誰々の子が来たとひどく喜んでくれ、玄関や縁側で座り込み(中へ入りなさいと言われるが、母親は中には入らなかった。入ったら最後、話をしたい聞きたいおじいちゃんおばあちゃんに、何時間もつきあわされてしまうからだ) 豚肉やサタ豆やヨモギ餅や昨日のおかずまで、いろいろなものが出て来る。まだ幼かったころは大人たちの話はたいくつで、すぐ同じ年頃のいとこの家に遊びに行ってしまう。
 いとこたちは夏休みだから午前中は畑の仕事を手伝って、遊ぶのは午後からだ。弟と私はご飯を食べてゆっくりといとこの家に遊びに行く。
 時間は決まっていなかった。「明日午後、海行こう」が約束だった。みんな隣近所だからどこにどんな客が来ていて、どこの家は午前中は何して午後は何をする、どこの家はいつが忙しいかなどはみんな知っているのだ。だから「午後ノンちゃんたちと海に行く」と言うだけで誰々が一緒に行くのかまでだいたい察しがつくらしい。私は子供の遊びの約束までもが大人の話のネタになるのが不思議だった。大きくなるにつれてそれが母親などは面倒くさいと思っていたことに気づいたが、幼く都会の核家族生活しか知らない私にはまったくうかがい知れない世界だった。
 家からは海が見える。海まではほとんどがサトウキビ畑だ。

徳之島 ~ 島の選挙 1

 オリンピックのように4年に一度行われる島の町議会選挙は、もちろん町、また島をあげての大行事となる。
 ご存じの方もいるかもしれないが、以前は徳之島を含む奄美諸島は国政選挙の時には奄美群島区で定数1を争う選挙激戦区であった。保岡興治と徳田虎雄の「保徳戦争」と言われた選挙は確かに激しい戦いであったようだ。酒好きな島民の性格のせいか何しろ喧嘩が多かったようだ。
 二つに分かれた政治勢力構図の中での町議会選挙だから、もちろん、候補者も保岡派と徳田派に分かれる。そして町民も固定支持者たちは必死に自分たちの候補者を応援するのだ。
 しかしこの「保徳戦争」が起こる前からすでに血の気の多い選挙をしていたように思う。私が小学生、中学生の時からおじいちゃんは選挙に出ていたから、1976年と1980年の選挙の応援に行ったのだと思う。
 大人たちが忙しそうに家に来てはどこかに出て行き、また来ては興奮して何かを話すので、私も何か手伝いたいのだが、何もすることがない。母親やおばたちは台所で、家にひっきりなしに来る応援者や支持者の人たちに出すおにぎりを作っていた。青森から応援に来ているおば(おじいちゃんの三女)は、声と見た目が良いという理由だと思ったがウグイス嬢をしながら町内を回っていた。
 何かしたくてしかたない私にとうとう仕事が回ってきた。おじいちゃんを応援したいという孫の気持ちを汲んで、無理やり作った仕事かもしれなかったが、私はいやに責任感を持って始めた。
 それは一日の選挙運動が終わり夜になってから、家の前に安い三折りの寝椅子を持ち出してそこに寝転がり、たまに通る車のナンバーを確認するというものだった。車のナンバーで誰が通ったかがわかり、またおじいちゃんの家は県道から中に入る高台にあるので、後ろには数えるくらいしか家はない。それで誰が後ろのご近所を訪ねてきたかをチェックすると言うのだ。
 私は何か重要な任務を任されたかのように真剣に通る車をチェックしていた。しかし県道ならまだしも県道から中に入ってくる細道を夜に通る車などほとんどない。近所に行くのなら懐中電灯を持って歩いて行く。
 私のこの初任務は何日もたたないうちに自然消滅してしまった。あまりにも通る車が少なすぎてつまらなくなってしまったのだ。しかし暑い選挙の夏は始まったばかりだ。
(続く)
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Author:heban
東京都出身
43歳

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