いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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韓流について 1

 私はここ何年間かずっと韓国に住んでいる。そのため日本での出来事はインターネットを通してのニュースでしかわからない。最近、フジテレビの韓国ドラマやハングル文字の大量の放送がずいぶんと話題になっているニュースをネットで見た。きっかけはいち俳優のツイッタ―のつぶやきからだと言うから少々驚いた。
 確かに韓国のネチズン(ネット市民)たちもすごい力を持つ。故盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の大統領選、選挙当日の最後の数時間、いや最後の数十分だったかの劇的逆転当選は「ノサモ」(ノムヒョンを愛する集まり)というネットを中心とした活動勢力の力が大きかった。ネチズンの力を国民的に認知させた大事件となった。しかしその分ネット文化のマナーの重要度が高まる。韓国のネチズンのマナーははっきり言って悪い。芸能人はそれで精神的に追い詰められる例が今でも後を絶えない。
 フジテレビの偏向報道と言われる視点の是非をちょっと横に置いて、私はまず日本のツイッタ―が悪用されるスキのたくさんあることが、心配になった。
 さて本題の韓流についてだが、まず思うことは、もう相当のバブル状態だろうにということである。「なぜあのドラマが今頃日本で流れているのか」とか、「え、彼も(彼女も)日本へ行ってデビューするの?」と韓国の芸能界をそれほど知らない私でさえ、猫も杓子も日本へ行くのかとよく思っていたものだった。
 そして今、このフジテレビの韓国偏重報道と一部で批判されているのだから、「ああ、やっとそろそろ潮時が来たのかな」と私は簡単に考えていたのだが、どうやらそうでもないようだ。
(続く)
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韓流について 2

 先月友人が日本へ行ってきた。この人はマスコミ関係で働いている人だったので、久しぶりに東京で何人かの友人にもあったようだ。すると自然とフジテレビの話にもなる。
 彼女はもともとこんなに韓国の歌手や俳優やドラマが日本の放送局でたくさん流れていれば、日本人の俳優やタレントはいい気持ちはしないだろうと思っていたようだ。友人の話ではもちろんそういう感情的なものもあるけれども、それだけではないというのだ。日本の芸能界には在日の人たちがたくさん働いている。芸能人は在日の人を抜かしては考えられないほどなのだそうだ。そしてこの多くの在日の芸能関係者が韓流を後押しし続けてきたというのだ。これはもうよく知られていることなのかもしれないが、私はとても合点がいった。
 最初ぺ・ヨンジュンの冬ソナから始まった純情路線のフィーバーが、いつの間にかK-POPなどのジャンルまで確立し、テレビ、雑誌、ラジオに定着しているのだから、時折韓国から日本の芸能界をのぞき見る立場としてはここ何年間という短い期間だが隔世の感がある。しかしこんな短期間でここまで定着したのも現地で彼らを応援する力強い味方あったのだと思えばよくわかる。
 在日同胞の人からしたら本国から来たタレントたちを日本でどうにか成功させてあげたいと思うのは当然だろう。もし彼らが今まで在日ということで芸能界で肩身の狭い思いをしていたならなおさらだ。その感情や紆余曲折した歴史の流れから見れば起こるして起こった韓流ブームなのかもしれない。
 芸能界に関してはよく知らないのでこれ以上何も言えないが、もし問題が「愛国心」というところまでいくのであれば、一言、自分がほんとに自分の国に対して自分を形作ってくれたという健全な愛着があるのであれば、自然に他の国の人にも同じような感情のあることを感じるはずで、しかしそれがただの自己主張に「愛国心」をなり下げてしまうのであれば、それは本来の「愛国心」とは違うとだけ言いたい。もちろんこれは片方にだけ通じることでなく、誰にでもあてはまることだ。
(続く)

韓流について 3

 「冬ソナ」は韓国では2002年1月から3月までKBSで放映されていた。当時私は、ソウルにあるプロマックス(現在資本の出資元が変わり社名も変更)という会社の日本語翻訳チームで仕事をしていた。その会社は日本で流行っていたプリクラを初めてソウルの明洞に設置した会社で、そこから得た収入や人脈を多方面に活用していた。その一つに韓国のテレビ放送局のKBSもあった。日本語翻訳チームは会社が主流にしていたゲームに関しての翻訳より、このKBSコンテンツの翻訳が主業務だった。
 日本のNTTドコモが携帯電話で提供しているコンテンツ中の海外部門に韓国KBSのチャンネルがあった。当時KBSの提供コンテンツは主にビジネスマン向けの経済ニュースが主流だったが、そこにだんだんとKBSの放送コンテンツ、たとえばドラマや歌番組、バラエティなどの放映内容が入るようになった。ミュージックバンク(KBSの歌番組)やギャクコンサート(お笑い番組)などだ。そして冬ソナも現地での放送後2週間ほどの作業時間をおいて日本でもアップされるようになった。
 当時は原題そのままの「冬の恋歌」と訳していた。その頃のKBSコンテンツの会員は3000名ほどいたが、大部分がビジネスマンであるなかで、「冬の恋歌」と「ミュージックバンク」の提供が始まると少しずつ一般の会員が伸び始めた。そして質問コーナーには「ドラマに出て来るポラリスというネックレスはどこへいったら手に入るでしょうか?」というような具体的な質問まで届くようになった。
 ペ・ヨンジュンはそれまで韓国でもそれほど知名度の高い俳優ではなかったが、このドラマで一躍時の人になった。そういう韓国でのフィーバーぶりを知っている日本人がメールをくれたのだと思うが、この携帯電話の小さなKBSコンテンツから「冬の恋歌」の情報を日本で得ようとしていることに私は驚きと同時にやりがいを感じた。
 私も韓国の一般視聴者にもれず、毎週「冬の恋歌」を見て感動していた。「何て純粋な恋なんだろうか。男女の恋愛関係で相手のために自ら身を引き他の異性に引き渡す、なんとことがあるんだろうか?」と私としては軽くショックを受けたものだった。私はその頃韓国の友だち3人と共同生活していたので、その友人に聞いた。
「韓国人は好きな異性をその人のためだと考えると、自分は身を引き他の人へ恋人を送り出すことがあるのか?」と聞いた。
 するとその友だちはあっけらかんとして
「そんなのドラマの中だけね」と言った。
 なんだそんなものかと納得したが、やはりその発想自体には新鮮な感動を覚えていた。
(続く)

韓流について 4

 「冬の恋歌」の恋愛感に軽くショックを受けた私は、職場でまさにこのドラマの翻訳をしながら、こんな純粋なドラマがずいぶんとスレた(私にはそう思えた)今の日本の文化に純粋さという刺激を与えてくれるといいなと強く思っていた。だから「冬の恋歌」の連載がNTTドコモで終わろうとするとき、チーム長に「ぜひ次は『秋の童話』をやりましょう!とKBSの方に言ってください」と言い続けた。「秋の童話」は今ではもう誰もが知っているように、同じプロデューサーのもと、その2年前の秋に韓国で大ヒットしたドラマだった。これも負けず劣らず純愛ドラマである。
 しかし本来はその時その時に放映されている放送コンテンツを、生の韓国情報として日本に伝えようと開設されているコンテンツサービスである。そうでなければニュースをはじめとして提供するサービスの質が問われてしまうからだ。であるから当然、2年前のドラマをいまさら日本に流して何の意味があるかという反応だった。
 ところが少しずつ会員数が伸びていったせいか、提供コンテンツがどんどん増えていった。その中で同時期に放映されているドラマと「冬の恋歌」の静かな人気も考慮され、「秋の童話」がアップされるようになったのだ。私は日本の中で隅に追いやられつつある「控えめ」や「抑制」の中にある強さや美しさが、封建的習慣とは別に人の性格や徳目の美しさとして復活してくれたらいいのに、などととても殊勝なことを考えながら翻訳をしていた。
 それから何か月と経たないうちに諸事情から転職することになり、この仕事を他の人に引き継ぐことになってしまったが。。。
 日本でどういう変遷を経て今日の韓流になったのかよくわからない。人々に求められ、必要とされるものは残って行く。しかし求める思い以上に仮想を作り出したらそれはただの虚構だ。そういう意味ではやはりバブル状態といってもいいのではないだろうか。

2002年ワールドカップ日韓共同開催 1

 忘れもしない2002年ワールドカップ。私はもちろんソウルにいた。韓国のフィーバーは大変なもので、韓国戦が始まるとみんながテレビにある部屋へ集まり応援する。もちろん仕事場でも同じである。
 私は日本の両親から「プルグンアンマ(赤い悪魔_韓国サポーターのこと)のTシャツを送ってくれないか」と言われて、ちょうど友だちとインターネットでまとめて買おうと思っていたので、家族の分も一緒に注文した。私だけでTシャツの注文枚数は8枚になってしまった。日本では韓国との共同開催は楽しく明るい話題だったのか、私もそんな友好的な思いで日本と韓国両方を応援していた。
 ワールドカップでの両国の応援は最初は順調であった(ように見えた)。しかしネット上では日韓の感情的なやり合いはすでに始まっていた。
 一緒に住んでいた友だち、チャンスクとセジンと私は韓国戦が始まるとプルグンアンマの赤いTシャツを着てテレビの前で応援する。会社で試合があるときは、会社の同僚とワイワイやりながら試合を見て、家に戻るともう一度彼女らとあのゲームはどうだったとか、誰がこうだったとか、素人なりの研究とネット上の分析をまた話すのだった。
 会社では韓国の試合は韓国人、日本人全員が見る。しかし日本の試合は日本人しか見ない。日本人は二人しかいないので、自然、二人で応接室の大型テレビを見ることになる。そして試合が終わり席に戻ると後ろからどうだったかと声がかかるので、「うん、勝ったよ」と言うだけだった。
 そんなある日、まだ総当たりの予選リーグが行われていた時、セジンから添付ファイルのついたメールが来た。毎日顔を合わせているのに何のメールだと思いながらあけると、ほとんどコメントはなく、添付されていたファイルは「日本の京都の新聞に掲載された問題記事」という韓国ネチズンたちの投稿文とその新聞のコピーだった。
 私は何でこんな記事を彼女が送って来たのかわからなかった。私はネチズンの投稿文と原文の日本語の記事を読んだ。記事は韓国チームについてだったか韓国との共同開催自体についてだったか覚えていないが、何しろ辛口の評論記事だった。私が見るにそれほど悪質でも感情的でもない記事で、ただ韓国に対して辛口だという印象しかもたなかった。しかしネチズンたちはそれをひどく歪曲して感情的になっていた。ひどい悪口を書き並べ、いったい日本人にどんなひどい仕打ちを受けたら、ここまで日本人を罵倒できるのかと思うような文句ばかりだった。
 私は彼女が私にメールを送ってきた真意を探る気が失せるほど、送ってきたこと自体に落胆してしまった。しかし家に帰るとセジンはまだ帰っていなかったので、チャンスクに言った。別に彼女は何の反応もしなかった。セジンが帰ってくると私はメールを受け取ったことを言ったが、それだけで話は終わってしまった。その内容を持って私に何か言うことはなく、かえって私は何で彼女がいわゆる「反日メール」を私に送ったのかわからないままだった。
(続く)

2002年ワールドカップ日韓共同開催 2

 この頃あたりからか、職場でも何か変な雰囲気が漂っていた。私はいちいちネット掲示板で今どんなことがやり取りされているのかなど調べないので、彼らが日韓の感情的な罵倒合戦をもろに受けていることを知らなかった。そのうち直接的に、
「日本は負けた?勝ったの。なんだ。(残念!)」
 とはっきり言うようになってきた。言ってそそくさと立ち去るのだ。だんだん今までとは違う周りの雰囲気に気づき始めた。日本語を話し、日本との取引をしながらも反日感情を持ち、ネット情報にあおられるように日本憎しの感情が湧き上がってくるようだった。私はそれまでただノー天気に両国を応援していたが、だんだんとサッカーの応援自体に興ざめし始めてきた。
 家に帰った時にチャンスクにそれを話すと、彼女までも、
「今まで知らなかったの。韓国人は日本人が嫌いなんだよ!」
 とこれ見よがしに言い返してきた。私は話を切った、というよりショックを受けて何も言えなかった。いったい私が何をしたというのか。「私はあなたたちみたいに『韓国負けろ』とは一度も思ったことはない。なのにあなたたちは『日本負けろ』と公言し、あたりかまわず日本人にぶつける」 私はそう思うと悔しくなってきた。「なんだこの韓国人たちは!」 それを私と全く関係ない人が私に言うなら、この人は何か日帝時代のつらい思いや傷があるのかと考える余裕ももてる。また職場までなら我慢できる。(さすがに私の直接の上司は一言も言わなかった。仕事上我慢していたのかもしれない) それほど親密な仲でもないから、私も今さら韓国人が日本人嫌いと言っても驚きもしない。しかし問題は一緒に生活をして過ごしている身近な人が私にそう言ったことだった。それがひどくつらかったしとてもショックだった。私は日本人だ。私が嫌いだという事と同じだ。いつもはそんな素振りはないくせに、韓国日本という民族、国家レベルまで概念を広げるとたちまち「お前は嫌いだ」となるのである。それを私に直接言ったことがショックだったのだ。
 身近な人に裏切られたような気分だった。セジンは私に直接言えなくてメールを送ってきた。チャンスクは私がそのことに不満を持つから、彼女の気持ちと自分の思いを言ったのだ。
 それから考え込んでしまった。というより悩み込んだ。友情や信頼とはなんだろうか。民族感情とは。史上初の共同開催をしながら片方は両国を応援し、片方は自分の国だけならまだしも、はっきりとその国に向って負けろと感情をむき出しにしている。一緒に開催している感覚はまったくない。自分だけが勝てばいいのではなく、日本が負けなければいけないのだ。
(続く)

2002年ワールドカップ日韓共同開催 3

 私はサッカーの応援どころではなくなった。私の周りにいる日本の友人に聞いた。いろいろな人に聞いた。みな自分と同じように、韓国人に憎しみをぶつけられるような体験をしたのではないかと思ったからだ。しかし聞いた人たちはみな、私ほど深刻ではなかった。「そこまで深刻に考える必要はない」とか、「まあ、いつものことじゃない」と言った反応だった。旦那さんが韓国人の日本人の奥さんも「うちではあんまりそんな話はしないかな」と言った感じで、誰も私の悔しさを共有できそうな人はいなかった。
 家で私は何んでもなかったように振舞いながら着実に言葉数が減った。街中では、
「タタンタ、タンタン テーハミング!」のかけ声とともに、時折
「イルボン チラ(日本負けろ)」の声も聞こえる。
 ベスト16が出そろって、日本も韓国もベスト16に入ったところからその声は大きくなっていった。
 ちょうどその頃、スンシという語学堂で一緒に学んだ在日韓国人の友人がソウルの私たちのうちに遊びに来たいという。彼女とはチャンスクも入れて3人で語学堂時代によく遊んだ仲だったので大歓迎だった。スンシはスポーツが好きなうえに日韓共同開催のワールドカップとあってひときわ喜んでいるように見えた。彼女は日本で応援して、まず釜山に行ってサッカーの試合を観戦し、その次に大邱で試合を応援、そしてソウルまで上がってくるという熱の入れようだった。
 スンシが私たちの家に来た。最初、当たり障りのないワールドカップの話で盛り上がった。彼女もソウルでは忙しくあちこちを歩き回った。
 彼女が来て何日目だろうか。私はダイニングキッチンでスンシと夕飯を食べながらいつもと同じようにワールドカップの話をしていた。そこにチャンスクやセジンも集まって来て、いろいろな話になっていった。私は冗談を言うように軽く、
「彼ら(韓国人)は日本負けろと言うんだよね。日本では韓国負けろって言っているの?」と聞いた。
 スンシは直接は答えなかった。チャンスクとセジンはそれに反論するというより、そんなの当たり前だという趣旨のことをあっさりと言った。重い空気ではなかったが、私がその話をふっておきながら、話が進むうちにだんだんと悔しさがこみ上げてきた。
 突然、私は泣き出してしまった。そして自分の部屋に入って行った。びっくりしたスンシも私のあとを追って部屋に入って来た。そこで私は今までの胸に詰まっていたすべてをスンシに話した。彼女なら韓国人の言い分だけでなく日本人の言い分もわかってくれるのではないかと思ったのだ。そして彼女の答えを聞きたかった。
 話がまだ終わらないうちに、いつもと違う私の様子にうろたえて、私の部屋に入って来れないでいたチャンスクとセジンがおそるおそる部屋のドアを開けて、
「ごめんね、オンニ。そんなに思いつめているなんて思わなかったんだよ」とボソボソと言った。
 私はそれを無視してだまっていた。バツが悪くなり二人が首をひっこめると私は静かにドアをしめてまた話し続けた。そして話は終わたが、スンシは何も答えなかった。とちょうどその時またもやドアが開いたかと思うと今度はチャンスクが、大声で、
「自分は日本の味方でもなく、韓国の味方でもなく、オンニの味方だ!」
 と勢いよく言い放って、バタンと自分でドアを閉めた。
 私はスンシに今までのことをすべて話して少し気分が落ち着いて来ていたが、彼女の言葉にずたずたになっていた信頼感は少しずつだがよみがえろうとしていたようだった。
 その後のことはよく覚えていない。テレビをつけてテレビを見たような気がするが、一緒に見たのか別々に見たのか覚えていない。しかしそれから私は街中で、
「イルボン チラ」と誰かが叫んでも以前のような胸の痛みは感じなくなった。
「あなたたちは日本人の友だちがいないからそんなことを言っているのだ。親しい、信頼しあえる友だちがいないからそんな軽々しく人を罵倒する言葉をはけるんだ」と、かえって韓国という枠を越えられない小さい存在のような印象を持つようになった。私はひそかに友人を誇らしく思えるようになっていた。私には国を越えた友だちがいるんだぞという自負心が生まれているようだった。
(続く)

2002年ワールドカップ日韓共同開催 4

 家の外ではベスト16に韓国が残り、それも強豪を下しての16強だったために相変わらず
「タタンタ、タンタン テーハミング!」の声とラッパとクラクションがなっていた。
 あの事件からチャンスクはテレビでサッカーの試合を見なくなった。セジンもほとんど見なくなったが、韓国戦があるときだけはセジンがテレビをつけるので、チャンスクも横で見ていたようだった。私は自分の部屋で見ていた。
 ある夜3人で気分転換に散歩に出た。裏は小高い丘でそのすそに私たちの住んでいるマンションがあるので、夜になれば人も車も少ないはずだが、ワールドカップが始まってからは夜になると人々が外に出て、韓国チーム躍進の興奮を例の「タタンタ~」で発散するのだった。
 その日もいつもは静かな通りに時折若者たちが運転する車が通り、「タタンタ~」とクラクションをならしている。あちこちで人々が散歩をしながら話をしている。
 ちょうど交差点の向こう側から大きな声で交わしている会話が聞こえてきた。
「日本が負ければ気持ちいいのに」と言う言葉が聞こえてくる。
 すると一緒にいたチャンスクとセジンは
「オ、オットケ、、(あ、どうしよう、、)」と困ったように顔を見合わせている。
 私が聞いてまた胸を痛めると、彼女たちなりに私に気を使っているのだ。私はまったく気にならなかった。別に何ら私はコメントしなかったが、前ほど気にならなくなっていたのだ。
 日本がトルコに負けた試合を私は会社の応接室で見た。これと言った感想はなかったが、なんか淡白な試合だなと思っただけだった。会社の同僚はもちろんうれしそうだった。私たちに直接言って来る性格の悪い人も若干1名いたが、私は心から堂々としていた。本当に気にならなかったのだ。
 私たちが会社に行ってる間にスンシが日本に帰った。どこで買ったか音符の飛び交うカードを私たち3人に残していった。それには「ハーモニーという“和”が大切で美しいのだということがわかった。私も周りにいる友人、私とかかわり合う人たちを大事にしたい」と書いてあった。私たちを反面教師にそう思ったのか、私たちの間にハーモニーがあったということなのか、微妙に意味の取りにくい文章だったが、私は3人の中にはハーモニーがあるのだといいように受け取らしてもらった。
 こうやって私にはとても長かったワールドカップが終わった。
 またこれには後日記があるのだがそれはまた改めて書くことにする。

韓国の友だち 1

 2000年の春から韓国の延世大学の語学堂(語学院)に通っていた。延世大学の語学堂と言えば、商社勤務の外国人家庭や国際機関の駐在員の子弟が韓国語を学ぶために集まるというイメージが強かったのだが、実際通ってみるとほとんど日本語圏の人が多かった。日本語圏というのは日本人、在日韓国人・朝鮮人の人たちということだ。もちろんクラスメートにいちいち「ご両親のお仕事は?」などとは聞かないので、もしかしたらそういう家庭もあったかもしれない。しかし私の周りにいた人たちは自発的に韓国語(および朝鮮語、以下韓国語で統一)を学びに来た在日の人が多かったように思う。あとは韓国から養子に出されて韓国語を知らない学生たち(韓国は結構、カナダやアメリカなどに国際養子縁組をしている)、そしてカザフスタンやキルギスタンから来た人たち、中国語を話す人たちも何人かいたように記憶する。
 台湾から来ていた女性はとても親切で穏やかな、そして大変な努力家であった。また確か北京だったと思うが、中国本土から来ていた人も2、3人いた。おそらく裕福な家なのだろう。彼女たちは主張は強いが、それほど頑張って韓国語を勉強していたという印象はなかった。
 私は早く韓国語を習得したくて留学生用の下宿や寄宿舎ではなく、街中の小さなワンルームの部屋に入った。周りはもちろん韓国人だけだ。
 ワンルームマンション(韓国語で“コシオン”といわれる一部屋3畳くらいの小さな勉強部屋スタイルの空間。もともとは司法試験や受験など集中して勉強できるように作られた建物)は、各部屋にベットと机とテレビと小さな冷蔵庫、そして収納ボックスしかない。ご飯は共同の台所で家主がご飯だけは炊飯器で炊いておいてくれるので、自分たちでおかずを持ち寄って食事をするのだ。シャワーやトイレも共同で使うからもちろん男女別のフロアーに分かれている。
 外国人は私だけだったから友だちを作るのは簡単だった。
(続く)

韓国の友だち 2

 ある日私の向かいの部屋に新しい住人が引っ越してきた。小柄な私とちょうど同じ年代の女性だった。彼女は芸術家志望の人でその時は英語を教えて生計を立てていたが、できれば絵をかいたり、写真やPCで作品を作ったりして、製作活動を通して生活したいという人だった。
 ある日の夕方いきなり停電になった。私はシャワーをしていたのだが、急に真っ暗になりシャワーの音だけになった。すると外で「停電だ」「あ、やっぱり」「ちょっと家主に言わないと」などと声が聞こえてきた。ただの停電だとわかり私も少し安心しシャワー室から出た。
 部屋に戻ったが、この狭い部屋で電気がつかないと何もできないことがわかり、これからどうしようかと途方に暮れていると、新しく来た住人が私に夕飯でも一緒に食べに行かないかという。私は夕飯は食べたけど、暗闇でじっとしていても仕方ないので、一緒に新村(シンチョン)の街にくり出すことにした。
 夏の夜で気持ちのいい風が吹いていた。近くの焼肉屋さんへ行った。店の前の昼間は車を駐車させているスペースに夜になるとテーブルを出して、外で焼肉ができるようにしていた。
 私たちはそこに腰を下ろしサンギョプサル(豚肉)とビールを注文し、私はまだつたないハングルを駆使して話し始めた。何を話したか覚えていないが、簡単な自己紹介をしたのだろう。
 肉をほとんど食べ終わったあたりで、店の中から急に大きな声が聞こえてきた。店のドアはすべて取りはずしてあるので、中の声はそのまま聞こえる。よく見ると店の真ん中を陣取っている20人近いグループのリーダーと思われる男性が立ち上がって何か言っている。
「ぼくらは成均館大学のコーラス部のメンバーです。夕方、歌を歌ってきた帰りにみんなで打ち上げをしています。これからぼくらの歌をお聞かせします!」
 たぶんこんなことを言ったのだと思う。はっきり聞き取れたのは「成均館大学のコーラス部」という言葉だけで後は友だちに説明をあおいだ。そして歌いだしたのが「麦畑(ポリパッ)」だ。日本で言えば赤とんぼのような歌だろうか、のんびりとした昔を懐かしむ童謡で、日本人の私でも郷愁を誘う歌だ。それを何とも美しいハーモニーで歌ったのだ。
 もちろん周りからは拍手喝采。確かアンコールがかけられて2,3曲歌ったように思うが、他の歌は知らない歌であったこともありほとんど覚えていない。逆に言えば「麦畑」が本当に素晴らしかったのだ。私は彼らの歌声に感動し、その勢い余って興奮気味に友だちに、「人生は一生懸命に生きていかないといけないんだよ!」とめちゃくちゃなハングルで訴えていた。
(続く)

韓国の友だち 3

 成均館大学のコーラス部の「麦畑」の歌声は私の心の琴線に触れ、何か温かい思いと同時に「よしやるぞ!」という希望を持って生きるという原始的なエネルギーを私に与えた。街なかの焼肉屋さんで誰とも知らないただ偶然席をともにした人々に、気分がいいから練習に練習を重ねた自分たちの歌声を聞かせたいという粋な思いに私がほだされたのか、語学堂に通い始めるという新しい環境に不安を感じていたからなのか、理由はよくわからないが、サプライズな美しいコーラスの歌声は私をとても興奮させたのだった。
 音楽会と共にお開きという感じになり、友人と私は席を立った。停電はなおったのかどうかわからなかったが家に向かった。
 コシオンはまだ停電中だった。私は毎日たくさん出る宿題を一つも終えていなかった。どうしようかと困っていると、友だちがどこからかろうそくを持って来て、これで屋上で勉強したらいいという。暑い中冷房も聞かないので部屋にはいられない。
 二人はろうそくを持って屋上に上がり、ろうそくの火の下で韓国のことわざや故事成語の穴あき問題を解いていき、そして暗記した。横で友だちは
「それ違う」
「こんな難しいことを勉強するの」
「こんな言葉あんまり使わない」
と好き勝手なことを時折コメントしつつ、その横で私はもくもくと暗記した。
 焼肉屋さんでいっぺんに仲良くなってしまった私たちはそれからずっと、長い付き合いを始めるようになるのだ。彼女がワールドカップの時にも「私の味方」になってくれたチャンスクだ。
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Author:heban
東京都出身
43歳

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