いろいろな人、いろいろなタイプの良心を探りながら、自分の良心の成長を模索する。

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2014年5月より英語版「良心を探して」を開設します。
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韓国の友だち 3

 成均館大学のコーラス部の「麦畑」の歌声は私の心の琴線に触れ、何か温かい思いと同時に「よしやるぞ!」という希望を持って生きるという原始的なエネルギーを私に与えた。街なかの焼肉屋さんで誰とも知らないただ偶然席をともにした人々に、気分がいいから練習に練習を重ねた自分たちの歌声を聞かせたいという粋な思いに私がほだされたのか、語学堂に通い始めるという新しい環境に不安を感じていたからなのか、理由はよくわからないが、サプライズな美しいコーラスの歌声は私をとても興奮させたのだった。
 音楽会と共にお開きという感じになり、友人と私は席を立った。停電はなおったのかどうかわからなかったが家に向かった。
 コシオンはまだ停電中だった。私は毎日たくさん出る宿題を一つも終えていなかった。どうしようかと困っていると、友だちがどこからかろうそくを持って来て、これで屋上で勉強したらいいという。暑い中冷房も聞かないので部屋にはいられない。
 二人はろうそくを持って屋上に上がり、ろうそくの火の下で韓国のことわざや故事成語の穴あき問題を解いていき、そして暗記した。横で友だちは
「それ違う」
「こんな難しいことを勉強するの」
「こんな言葉あんまり使わない」
と好き勝手なことを時折コメントしつつ、その横で私はもくもくと暗記した。
 焼肉屋さんでいっぺんに仲良くなってしまった私たちはそれからずっと、長い付き合いを始めるようになるのだ。彼女がワールドカップの時にも「私の味方」になってくれたチャンスクだ。

韓国の友だち 2

 ある日私の向かいの部屋に新しい住人が引っ越してきた。小柄な私とちょうど同じ年代の女性だった。彼女は芸術家志望の人でその時は英語を教えて生計を立てていたが、できれば絵をかいたり、写真やPCで作品を作ったりして、製作活動を通して生活したいという人だった。
 ある日の夕方いきなり停電になった。私はシャワーをしていたのだが、急に真っ暗になりシャワーの音だけになった。すると外で「停電だ」「あ、やっぱり」「ちょっと家主に言わないと」などと声が聞こえてきた。ただの停電だとわかり私も少し安心しシャワー室から出た。
 部屋に戻ったが、この狭い部屋で電気がつかないと何もできないことがわかり、これからどうしようかと途方に暮れていると、新しく来た住人が私に夕飯でも一緒に食べに行かないかという。私は夕飯は食べたけど、暗闇でじっとしていても仕方ないので、一緒に新村(シンチョン)の街にくり出すことにした。
 夏の夜で気持ちのいい風が吹いていた。近くの焼肉屋さんへ行った。店の前の昼間は車を駐車させているスペースに夜になるとテーブルを出して、外で焼肉ができるようにしていた。
 私たちはそこに腰を下ろしサンギョプサル(豚肉)とビールを注文し、私はまだつたないハングルを駆使して話し始めた。何を話したか覚えていないが、簡単な自己紹介をしたのだろう。
 肉をほとんど食べ終わったあたりで、店の中から急に大きな声が聞こえてきた。店のドアはすべて取りはずしてあるので、中の声はそのまま聞こえる。よく見ると店の真ん中を陣取っている20人近いグループのリーダーと思われる男性が立ち上がって何か言っている。
「ぼくらは成均館大学のコーラス部のメンバーです。夕方、歌を歌ってきた帰りにみんなで打ち上げをしています。これからぼくらの歌をお聞かせします!」
 たぶんこんなことを言ったのだと思う。はっきり聞き取れたのは「成均館大学のコーラス部」という言葉だけで後は友だちに説明をあおいだ。そして歌いだしたのが「麦畑(ポリパッ)」だ。日本で言えば赤とんぼのような歌だろうか、のんびりとした昔を懐かしむ童謡で、日本人の私でも郷愁を誘う歌だ。それを何とも美しいハーモニーで歌ったのだ。
 もちろん周りからは拍手喝采。確かアンコールがかけられて2,3曲歌ったように思うが、他の歌は知らない歌であったこともありほとんど覚えていない。逆に言えば「麦畑」が本当に素晴らしかったのだ。私は彼らの歌声に感動し、その勢い余って興奮気味に友だちに、「人生は一生懸命に生きていかないといけないんだよ!」とめちゃくちゃなハングルで訴えていた。
(続く)

韓国の友だち 1

 2000年の春から韓国の延世大学の語学堂(語学院)に通っていた。延世大学の語学堂と言えば、商社勤務の外国人家庭や国際機関の駐在員の子弟が韓国語を学ぶために集まるというイメージが強かったのだが、実際通ってみるとほとんど日本語圏の人が多かった。日本語圏というのは日本人、在日韓国人・朝鮮人の人たちということだ。もちろんクラスメートにいちいち「ご両親のお仕事は?」などとは聞かないので、もしかしたらそういう家庭もあったかもしれない。しかし私の周りにいた人たちは自発的に韓国語(および朝鮮語、以下韓国語で統一)を学びに来た在日の人が多かったように思う。あとは韓国から養子に出されて韓国語を知らない学生たち(韓国は結構、カナダやアメリカなどに国際養子縁組をしている)、そしてカザフスタンやキルギスタンから来た人たち、中国語を話す人たちも何人かいたように記憶する。
 台湾から来ていた女性はとても親切で穏やかな、そして大変な努力家であった。また確か北京だったと思うが、中国本土から来ていた人も2、3人いた。おそらく裕福な家なのだろう。彼女たちは主張は強いが、それほど頑張って韓国語を勉強していたという印象はなかった。
 私は早く韓国語を習得したくて留学生用の下宿や寄宿舎ではなく、街中の小さなワンルームの部屋に入った。周りはもちろん韓国人だけだ。
 ワンルームマンション(韓国語で“コシオン”といわれる一部屋3畳くらいの小さな勉強部屋スタイルの空間。もともとは司法試験や受験など集中して勉強できるように作られた建物)は、各部屋にベットと机とテレビと小さな冷蔵庫、そして収納ボックスしかない。ご飯は共同の台所で家主がご飯だけは炊飯器で炊いておいてくれるので、自分たちでおかずを持ち寄って食事をするのだ。シャワーやトイレも共同で使うからもちろん男女別のフロアーに分かれている。
 外国人は私だけだったから友だちを作るのは簡単だった。
(続く)

徳之島 ~ 島の選挙 1

 オリンピックのように4年に一度行われる島の町議会選挙は、もちろん町、また島をあげての大行事となる。
 ご存じの方もいるかもしれないが、以前は徳之島を含む奄美諸島は国政選挙の時には奄美群島区で定数1を争う選挙激戦区であった。保岡興治と徳田虎雄の「保徳戦争」と言われた選挙は確かに激しい戦いであったようだ。酒好きな島民の性格のせいか何しろ喧嘩が多かったようだ。
 二つに分かれた政治勢力構図の中での町議会選挙だから、もちろん、候補者も保岡派と徳田派に分かれる。そして町民も固定支持者たちは必死に自分たちの候補者を応援するのだ。
 しかしこの「保徳戦争」が起こる前からすでに血の気の多い選挙をしていたように思う。私が小学生、中学生の時からおじいちゃんは選挙に出ていたから、1976年と1980年の選挙の応援に行ったのだと思う。
 大人たちが忙しそうに家に来てはどこかに出て行き、また来ては興奮して何かを話すので、私も何か手伝いたいのだが、何もすることがない。母親やおばたちは台所で、家にひっきりなしに来る応援者や支持者の人たちに出すおにぎりを作っていた。青森から応援に来ているおば(おじいちゃんの三女)は、声と見た目が良いという理由だと思ったがウグイス嬢をしながら町内を回っていた。
 何かしたくてしかたない私にとうとう仕事が回ってきた。おじいちゃんを応援したいという孫の気持ちを汲んで、無理やり作った仕事かもしれなかったが、私はいやに責任感を持って始めた。
 それは一日の選挙運動が終わり夜になってから、家の前に安い三折りの寝椅子を持ち出してそこに寝転がり、たまに通る車のナンバーを確認するというものだった。車のナンバーで誰が通ったかがわかり、またおじいちゃんの家は県道から中に入る高台にあるので、後ろには数えるくらいしか家はない。それで誰が後ろのご近所を訪ねてきたかをチェックすると言うのだ。
 私は何か重要な任務を任されたかのように真剣に通る車をチェックしていた。しかし県道ならまだしも県道から中に入ってくる細道を夜に通る車などほとんどない。近所に行くのなら懐中電灯を持って歩いて行く。
 私のこの初任務は何日もたたないうちに自然消滅してしまった。あまりにも通る車が少なすぎてつまらなくなってしまったのだ。しかし暑い選挙の夏は始まったばかりだ。
(続く)

故郷の徳之島

 私が生まれ育ったのは東京だが、両親の故郷は鹿児島の南にある奄美諸島の一つ、徳之島というところだ。沖永良部島や与論島は観光地としても名が知られている中で、徳之島はそれほど観光地化されていない。猛毒のハブが出るせいだろうか。名前が世間に出たのは、五つ子ちゃんと世界一の長寿だった泉重千代さんと、、、最近だとマラソン選手だった高橋直子選手の合宿地として使われた時だろうか。
 故郷はどこですかと聞かれると、「生まれたのは東京ですが、親戚は徳之島にいます」という。両親は徳之島の同じ町の出身で、地元で結婚式をあげて東京に出て来た。
 母方の祖父は農協の理事をしていたこともあり、引退後は町議会議員をしていた。東京にいる私たちも4年に一度、夏にある町議会議員選挙におじいちゃんを応援しに家族みんなで島へ帰る。
 この久々の里帰りは両親よりも子どもたちのほうがはるかに楽しんでいた。
 まずは何と言ってもきれいな海と空と見渡す限りのサトウキビ畑。暑い日差しが射すが、日陰に入ればけっこう涼しい。それにお年寄りが多いせいか時間の流れがゆったりとしている。海で泳ぐのも楽しいし、釣りをするのも楽しいし、車で走っても自転車で走っても楽しい。ボーとしているのでさえ気持ちがいい。
 親戚まわりをすれば、東京から誰々の子が来たとひどく喜んでくれ、玄関や縁側で座り込み(中へ入りなさいと言われるが、母親は中には入らなかった。入ったら最後、話をしたい聞きたいおじいちゃんおばあちゃんに、何時間もつきあわされてしまうからだ) 豚肉やサタ豆やヨモギ餅や昨日のおかずまで、いろいろなものが出て来る。まだ幼かったころは大人たちの話はたいくつで、すぐ同じ年頃のいとこの家に遊びに行ってしまう。
 いとこたちは夏休みだから午前中は畑の仕事を手伝って、遊ぶのは午後からだ。弟と私はご飯を食べてゆっくりといとこの家に遊びに行く。
 時間は決まっていなかった。「明日午後、海行こう」が約束だった。みんな隣近所だからどこにどんな客が来ていて、どこの家は午前中は何して午後は何をする、どこの家はいつが忙しいかなどはみんな知っているのだ。だから「午後ノンちゃんたちと海に行く」と言うだけで誰々が一緒に行くのかまでだいたい察しがつくらしい。私は子供の遊びの約束までもが大人の話のネタになるのが不思議だった。大きくなるにつれてそれが母親などは面倒くさいと思っていたことに気づいたが、幼く都会の核家族生活しか知らない私にはまったくうかがい知れない世界だった。
 家からは海が見える。海まではほとんどがサトウキビ畑だ。

良心の呵責 ~ 弟とシャーペンの芯

 私が初めて良心の呵責を覚えたのは記憶にある限りでは小学生の時だ。
 父親は私と弟を連れて時折パチンコに行った。ある日父親の台が大当たりしてたくさんの景品と替えられる時があった。(この頃はまだ現金に替えるシステムはなかった) いつもはチョコレートと取り替えるのだったが、その日はもっと高い物と交換していいというので私はシャーペンがほしいと言った。まだ小学校低学年だったので誰も学校でシャーペンなんて使っている子はいなかったが、私はそれがほしくてしかたなかった。初めてシャーペンを手にすると、何かハイソサエティーの仲間入りでもしたような、急にかっこいい大人になった気がした。
 それから少したって私の誕生日が来た。弟はお年玉を集めたのだろうか、自分のお小遣いで誕生日のプレゼントを買うという。弟はまだ保育園に通っている年なのでお小遣いはもらっていない。
 私は弟が一人で店で買い物をするのが心配になり一緒に目的の文房具屋さんへ行った。店に一緒に入ったのだが、弟は何を買うのかを言わない。まだ秘密だと言って私に「店の外で待っていて」と言う。それで私は店の外で待っていた。弟はすぐ小さな長細い包装紙を持って出てきた。
 私は中身がひどく気になった。なぜかといえばその時の私は無性にシャーペンの芯がほしかったので、弟がそれを私の代わりに買ってくれないかなと思っていたからだ。しかし、袋の大きさからするとシャーペンの芯ではない。私は家に帰る道すがらどうにか袋の中身をつきとめて、弟にシャーペンの芯に買い換えてもらうよう説得できないかと頭を働かせた。
 道を歩く保育園生の弟の横にくっつきながら、何気なく袋の中身は何かと聞いてみる。しかし弟は初めてのプレゼントという何か誇らしい思いがあるようで、開けるまでは言わないと言う。すたすたと歩く弟にそれでも執拗になおかつていねいに「中身をあれかこれか」と聞いてみる。そしてやっと弟が中身を言った。それはボールペンだった。おそらくどうやってためたのかはわからないが100円玉を持って店に行ったようだった。しかし100円あれば充分シャーペンの芯が買える。そこから私は物欲に目がくらみ、お姉ちゃんのために初めてプレゼントを買った健気な弟に、自分の好きな品物に買い換えさせる切りくずし工作をはじめるのだ。
「ボールペンか、ボールペンもいいけど、シャーペンの芯もいいよ」
「お姉ちゃん、シャーペンの芯がほしかったんだけど、、、」
 何と身勝手なお姉ちゃんだろうか。お姉ちゃんは小学生だったからお小遣いをもらっていた。自分で買えばいいだけの話なのだ。しかし弟はまだお小遣いもなく、どこでためたか少ないお金を自分のために使うのでなく、お姉ちゃんのプレゼントを買うと言って文房具屋まで来たのだ。それを自分の好きなものに買い換えさせようとしているのだから。。。
 しかし気のやさしい弟は私の頼みを聞きいれ、家に帰る道を途中で引き返して文房具屋でシャーペンの芯と換えた。私は喜び勇んで店を出た。一緒に出た弟に私は必死に自分が喜んでいることを伝えようとしていた。おそらくすでに弟に申し訳ないと思っていたようだ。
 弟はまだ小さくて小学生の私の後をくっついて真似をしているような年だ。しかしその時だけは私の後ろでなく前をしっかりと文房具屋に向って歩いていた。弟の中にはお姉ちゃんのプレゼントを買うという強い思いがあって、すたすた一人でも大丈夫だというように歩いていたのだ。その気丈な姿が今でも思い出される。だから私は買い換えた後に胸が痛んだ。弟の気持ちを踏みにじったような気がした。彼がプレゼントにボールペンを選んだのはきっと私がシャーペンを大切にしていたからだ。それを見て幼いながらに似たようなボールペンをあげたら、また同じように私が喜ぶと思ったに違いないのだ。
 このことを30年近く経ったある日、弟にその話をした。すると弟は一言、
「そんなことあったっけ。全然覚えてねーな」と言った。
 やさしく気丈な弟はきっとその時、お姉ちゃんが喜んでくれたから「よし」と思ったのだろう。何のわだかまりもなく記憶のかなたへ流してくれたのだから、私が「ありがとう」というべきかもしれない。

2002年ワールドカップ日韓共同開催 4

 家の外ではベスト16に韓国が残り、それも強豪を下しての16強だったために相変わらず
「タタンタ、タンタン テーハミング!」の声とラッパとクラクションがなっていた。
 あの事件からチャンスクはテレビでサッカーの試合を見なくなった。セジンもほとんど見なくなったが、韓国戦があるときだけはセジンがテレビをつけるので、チャンスクも横で見ていたようだった。私は自分の部屋で見ていた。
 ある夜3人で気分転換に散歩に出た。裏は小高い丘でそのすそに私たちの住んでいるマンションがあるので、夜になれば人も車も少ないはずだが、ワールドカップが始まってからは夜になると人々が外に出て、韓国チーム躍進の興奮を例の「タタンタ~」で発散するのだった。
 その日もいつもは静かな通りに時折若者たちが運転する車が通り、「タタンタ~」とクラクションをならしている。あちこちで人々が散歩をしながら話をしている。
 ちょうど交差点の向こう側から大きな声で交わしている会話が聞こえてきた。
「日本が負ければ気持ちいいのに」と言う言葉が聞こえてくる。
 すると一緒にいたチャンスクとセジンは
「オ、オットケ、、(あ、どうしよう、、)」と困ったように顔を見合わせている。
 私が聞いてまた胸を痛めると、彼女たちなりに私に気を使っているのだ。私はまったく気にならなかった。別に何ら私はコメントしなかったが、前ほど気にならなくなっていたのだ。
 日本がトルコに負けた試合を私は会社の応接室で見た。これと言った感想はなかったが、なんか淡白な試合だなと思っただけだった。会社の同僚はもちろんうれしそうだった。私たちに直接言って来る性格の悪い人も若干1名いたが、私は心から堂々としていた。本当に気にならなかったのだ。
 私たちが会社に行ってる間にスンシが日本に帰った。どこで買ったか音符の飛び交うカードを私たち3人に残していった。それには「ハーモニーという“和”が大切で美しいのだということがわかった。私も周りにいる友人、私とかかわり合う人たちを大事にしたい」と書いてあった。私たちを反面教師にそう思ったのか、私たちの間にハーモニーがあったということなのか、微妙に意味の取りにくい文章だったが、私は3人の中にはハーモニーがあるのだといいように受け取らしてもらった。
 こうやって私にはとても長かったワールドカップが終わった。
 またこれには後日記があるのだがそれはまた改めて書くことにする。

2002年ワールドカップ日韓共同開催 3

 私はサッカーの応援どころではなくなった。私の周りにいる日本の友人に聞いた。いろいろな人に聞いた。みな自分と同じように、韓国人に憎しみをぶつけられるような体験をしたのではないかと思ったからだ。しかし聞いた人たちはみな、私ほど深刻ではなかった。「そこまで深刻に考える必要はない」とか、「まあ、いつものことじゃない」と言った反応だった。旦那さんが韓国人の日本人の奥さんも「うちではあんまりそんな話はしないかな」と言った感じで、誰も私の悔しさを共有できそうな人はいなかった。
 家で私は何んでもなかったように振舞いながら着実に言葉数が減った。街中では、
「タタンタ、タンタン テーハミング!」のかけ声とともに、時折
「イルボン チラ(日本負けろ)」の声も聞こえる。
 ベスト16が出そろって、日本も韓国もベスト16に入ったところからその声は大きくなっていった。
 ちょうどその頃、スンシという語学堂で一緒に学んだ在日韓国人の友人がソウルの私たちのうちに遊びに来たいという。彼女とはチャンスクも入れて3人で語学堂時代によく遊んだ仲だったので大歓迎だった。スンシはスポーツが好きなうえに日韓共同開催のワールドカップとあってひときわ喜んでいるように見えた。彼女は日本で応援して、まず釜山に行ってサッカーの試合を観戦し、その次に大邱で試合を応援、そしてソウルまで上がってくるという熱の入れようだった。
 スンシが私たちの家に来た。最初、当たり障りのないワールドカップの話で盛り上がった。彼女もソウルでは忙しくあちこちを歩き回った。
 彼女が来て何日目だろうか。私はダイニングキッチンでスンシと夕飯を食べながらいつもと同じようにワールドカップの話をしていた。そこにチャンスクやセジンも集まって来て、いろいろな話になっていった。私は冗談を言うように軽く、
「彼ら(韓国人)は日本負けろと言うんだよね。日本では韓国負けろって言っているの?」と聞いた。
 スンシは直接は答えなかった。チャンスクとセジンはそれに反論するというより、そんなの当たり前だという趣旨のことをあっさりと言った。重い空気ではなかったが、私がその話をふっておきながら、話が進むうちにだんだんと悔しさがこみ上げてきた。
 突然、私は泣き出してしまった。そして自分の部屋に入って行った。びっくりしたスンシも私のあとを追って部屋に入って来た。そこで私は今までの胸に詰まっていたすべてをスンシに話した。彼女なら韓国人の言い分だけでなく日本人の言い分もわかってくれるのではないかと思ったのだ。そして彼女の答えを聞きたかった。
 話がまだ終わらないうちに、いつもと違う私の様子にうろたえて、私の部屋に入って来れないでいたチャンスクとセジンがおそるおそる部屋のドアを開けて、
「ごめんね、オンニ。そんなに思いつめているなんて思わなかったんだよ」とボソボソと言った。
 私はそれを無視してだまっていた。バツが悪くなり二人が首をひっこめると私は静かにドアをしめてまた話し続けた。そして話は終わたが、スンシは何も答えなかった。とちょうどその時またもやドアが開いたかと思うと今度はチャンスクが、大声で、
「自分は日本の味方でもなく、韓国の味方でもなく、オンニの味方だ!」
 と勢いよく言い放って、バタンと自分でドアを閉めた。
 私はスンシに今までのことをすべて話して少し気分が落ち着いて来ていたが、彼女の言葉にずたずたになっていた信頼感は少しずつだがよみがえろうとしていたようだった。
 その後のことはよく覚えていない。テレビをつけてテレビを見たような気がするが、一緒に見たのか別々に見たのか覚えていない。しかしそれから私は街中で、
「イルボン チラ」と誰かが叫んでも以前のような胸の痛みは感じなくなった。
「あなたたちは日本人の友だちがいないからそんなことを言っているのだ。親しい、信頼しあえる友だちがいないからそんな軽々しく人を罵倒する言葉をはけるんだ」と、かえって韓国という枠を越えられない小さい存在のような印象を持つようになった。私はひそかに友人を誇らしく思えるようになっていた。私には国を越えた友だちがいるんだぞという自負心が生まれているようだった。
(続く)

2002年ワールドカップ日韓共同開催 2

 この頃あたりからか、職場でも何か変な雰囲気が漂っていた。私はいちいちネット掲示板で今どんなことがやり取りされているのかなど調べないので、彼らが日韓の感情的な罵倒合戦をもろに受けていることを知らなかった。そのうち直接的に、
「日本は負けた?勝ったの。なんだ。(残念!)」
 とはっきり言うようになってきた。言ってそそくさと立ち去るのだ。だんだん今までとは違う周りの雰囲気に気づき始めた。日本語を話し、日本との取引をしながらも反日感情を持ち、ネット情報にあおられるように日本憎しの感情が湧き上がってくるようだった。私はそれまでただノー天気に両国を応援していたが、だんだんとサッカーの応援自体に興ざめし始めてきた。
 家に帰った時にチャンスクにそれを話すと、彼女までも、
「今まで知らなかったの。韓国人は日本人が嫌いなんだよ!」
 とこれ見よがしに言い返してきた。私は話を切った、というよりショックを受けて何も言えなかった。いったい私が何をしたというのか。「私はあなたたちみたいに『韓国負けろ』とは一度も思ったことはない。なのにあなたたちは『日本負けろ』と公言し、あたりかまわず日本人にぶつける」 私はそう思うと悔しくなってきた。「なんだこの韓国人たちは!」 それを私と全く関係ない人が私に言うなら、この人は何か日帝時代のつらい思いや傷があるのかと考える余裕ももてる。また職場までなら我慢できる。(さすがに私の直接の上司は一言も言わなかった。仕事上我慢していたのかもしれない) それほど親密な仲でもないから、私も今さら韓国人が日本人嫌いと言っても驚きもしない。しかし問題は一緒に生活をして過ごしている身近な人が私にそう言ったことだった。それがひどくつらかったしとてもショックだった。私は日本人だ。私が嫌いだという事と同じだ。いつもはそんな素振りはないくせに、韓国日本という民族、国家レベルまで概念を広げるとたちまち「お前は嫌いだ」となるのである。それを私に直接言ったことがショックだったのだ。
 身近な人に裏切られたような気分だった。セジンは私に直接言えなくてメールを送ってきた。チャンスクは私がそのことに不満を持つから、彼女の気持ちと自分の思いを言ったのだ。
 それから考え込んでしまった。というより悩み込んだ。友情や信頼とはなんだろうか。民族感情とは。史上初の共同開催をしながら片方は両国を応援し、片方は自分の国だけならまだしも、はっきりとその国に向って負けろと感情をむき出しにしている。一緒に開催している感覚はまったくない。自分だけが勝てばいいのではなく、日本が負けなければいけないのだ。
(続く)

2002年ワールドカップ日韓共同開催 1

 忘れもしない2002年ワールドカップ。私はもちろんソウルにいた。韓国のフィーバーは大変なもので、韓国戦が始まるとみんながテレビにある部屋へ集まり応援する。もちろん仕事場でも同じである。
 私は日本の両親から「プルグンアンマ(赤い悪魔_韓国サポーターのこと)のTシャツを送ってくれないか」と言われて、ちょうど友だちとインターネットでまとめて買おうと思っていたので、家族の分も一緒に注文した。私だけでTシャツの注文枚数は8枚になってしまった。日本では韓国との共同開催は楽しく明るい話題だったのか、私もそんな友好的な思いで日本と韓国両方を応援していた。
 ワールドカップでの両国の応援は最初は順調であった(ように見えた)。しかしネット上では日韓の感情的なやり合いはすでに始まっていた。
 一緒に住んでいた友だち、チャンスクとセジンと私は韓国戦が始まるとプルグンアンマの赤いTシャツを着てテレビの前で応援する。会社で試合があるときは、会社の同僚とワイワイやりながら試合を見て、家に戻るともう一度彼女らとあのゲームはどうだったとか、誰がこうだったとか、素人なりの研究とネット上の分析をまた話すのだった。
 会社では韓国の試合は韓国人、日本人全員が見る。しかし日本の試合は日本人しか見ない。日本人は二人しかいないので、自然、二人で応接室の大型テレビを見ることになる。そして試合が終わり席に戻ると後ろからどうだったかと声がかかるので、「うん、勝ったよ」と言うだけだった。
 そんなある日、まだ総当たりの予選リーグが行われていた時、セジンから添付ファイルのついたメールが来た。毎日顔を合わせているのに何のメールだと思いながらあけると、ほとんどコメントはなく、添付されていたファイルは「日本の京都の新聞に掲載された問題記事」という韓国ネチズンたちの投稿文とその新聞のコピーだった。
 私は何でこんな記事を彼女が送って来たのかわからなかった。私はネチズンの投稿文と原文の日本語の記事を読んだ。記事は韓国チームについてだったか韓国との共同開催自体についてだったか覚えていないが、何しろ辛口の評論記事だった。私が見るにそれほど悪質でも感情的でもない記事で、ただ韓国に対して辛口だという印象しかもたなかった。しかしネチズンたちはそれをひどく歪曲して感情的になっていた。ひどい悪口を書き並べ、いったい日本人にどんなひどい仕打ちを受けたら、ここまで日本人を罵倒できるのかと思うような文句ばかりだった。
 私は彼女が私にメールを送ってきた真意を探る気が失せるほど、送ってきたこと自体に落胆してしまった。しかし家に帰るとセジンはまだ帰っていなかったので、チャンスクに言った。別に彼女は何の反応もしなかった。セジンが帰ってくると私はメールを受け取ったことを言ったが、それだけで話は終わってしまった。その内容を持って私に何か言うことはなく、かえって私は何で彼女がいわゆる「反日メール」を私に送ったのかわからないままだった。
(続く)

韓流について 4

 「冬の恋歌」の恋愛感に軽くショックを受けた私は、職場でまさにこのドラマの翻訳をしながら、こんな純粋なドラマがずいぶんとスレた(私にはそう思えた)今の日本の文化に純粋さという刺激を与えてくれるといいなと強く思っていた。だから「冬の恋歌」の連載がNTTドコモで終わろうとするとき、チーム長に「ぜひ次は『秋の童話』をやりましょう!とKBSの方に言ってください」と言い続けた。「秋の童話」は今ではもう誰もが知っているように、同じプロデューサーのもと、その2年前の秋に韓国で大ヒットしたドラマだった。これも負けず劣らず純愛ドラマである。
 しかし本来はその時その時に放映されている放送コンテンツを、生の韓国情報として日本に伝えようと開設されているコンテンツサービスである。そうでなければニュースをはじめとして提供するサービスの質が問われてしまうからだ。であるから当然、2年前のドラマをいまさら日本に流して何の意味があるかという反応だった。
 ところが少しずつ会員数が伸びていったせいか、提供コンテンツがどんどん増えていった。その中で同時期に放映されているドラマと「冬の恋歌」の静かな人気も考慮され、「秋の童話」がアップされるようになったのだ。私は日本の中で隅に追いやられつつある「控えめ」や「抑制」の中にある強さや美しさが、封建的習慣とは別に人の性格や徳目の美しさとして復活してくれたらいいのに、などととても殊勝なことを考えながら翻訳をしていた。
 それから何か月と経たないうちに諸事情から転職することになり、この仕事を他の人に引き継ぐことになってしまったが。。。
 日本でどういう変遷を経て今日の韓流になったのかよくわからない。人々に求められ、必要とされるものは残って行く。しかし求める思い以上に仮想を作り出したらそれはただの虚構だ。そういう意味ではやはりバブル状態といってもいいのではないだろうか。

韓流について 3

 「冬ソナ」は韓国では2002年1月から3月までKBSで放映されていた。当時私は、ソウルにあるプロマックス(現在資本の出資元が変わり社名も変更)という会社の日本語翻訳チームで仕事をしていた。その会社は日本で流行っていたプリクラを初めてソウルの明洞に設置した会社で、そこから得た収入や人脈を多方面に活用していた。その一つに韓国のテレビ放送局のKBSもあった。日本語翻訳チームは会社が主流にしていたゲームに関しての翻訳より、このKBSコンテンツの翻訳が主業務だった。
 日本のNTTドコモが携帯電話で提供しているコンテンツ中の海外部門に韓国KBSのチャンネルがあった。当時KBSの提供コンテンツは主にビジネスマン向けの経済ニュースが主流だったが、そこにだんだんとKBSの放送コンテンツ、たとえばドラマや歌番組、バラエティなどの放映内容が入るようになった。ミュージックバンク(KBSの歌番組)やギャクコンサート(お笑い番組)などだ。そして冬ソナも現地での放送後2週間ほどの作業時間をおいて日本でもアップされるようになった。
 当時は原題そのままの「冬の恋歌」と訳していた。その頃のKBSコンテンツの会員は3000名ほどいたが、大部分がビジネスマンであるなかで、「冬の恋歌」と「ミュージックバンク」の提供が始まると少しずつ一般の会員が伸び始めた。そして質問コーナーには「ドラマに出て来るポラリスというネックレスはどこへいったら手に入るでしょうか?」というような具体的な質問まで届くようになった。
 ペ・ヨンジュンはそれまで韓国でもそれほど知名度の高い俳優ではなかったが、このドラマで一躍時の人になった。そういう韓国でのフィーバーぶりを知っている日本人がメールをくれたのだと思うが、この携帯電話の小さなKBSコンテンツから「冬の恋歌」の情報を日本で得ようとしていることに私は驚きと同時にやりがいを感じた。
 私も韓国の一般視聴者にもれず、毎週「冬の恋歌」を見て感動していた。「何て純粋な恋なんだろうか。男女の恋愛関係で相手のために自ら身を引き他の異性に引き渡す、なんとことがあるんだろうか?」と私としては軽くショックを受けたものだった。私はその頃韓国の友だち3人と共同生活していたので、その友人に聞いた。
「韓国人は好きな異性をその人のためだと考えると、自分は身を引き他の人へ恋人を送り出すことがあるのか?」と聞いた。
 するとその友だちはあっけらかんとして
「そんなのドラマの中だけね」と言った。
 なんだそんなものかと納得したが、やはりその発想自体には新鮮な感動を覚えていた。
(続く)

韓流について 2

 先月友人が日本へ行ってきた。この人はマスコミ関係で働いている人だったので、久しぶりに東京で何人かの友人にもあったようだ。すると自然とフジテレビの話にもなる。
 彼女はもともとこんなに韓国の歌手や俳優やドラマが日本の放送局でたくさん流れていれば、日本人の俳優やタレントはいい気持ちはしないだろうと思っていたようだ。友人の話ではもちろんそういう感情的なものもあるけれども、それだけではないというのだ。日本の芸能界には在日の人たちがたくさん働いている。芸能人は在日の人を抜かしては考えられないほどなのだそうだ。そしてこの多くの在日の芸能関係者が韓流を後押しし続けてきたというのだ。これはもうよく知られていることなのかもしれないが、私はとても合点がいった。
 最初ぺ・ヨンジュンの冬ソナから始まった純情路線のフィーバーが、いつの間にかK-POPなどのジャンルまで確立し、テレビ、雑誌、ラジオに定着しているのだから、時折韓国から日本の芸能界をのぞき見る立場としてはここ何年間という短い期間だが隔世の感がある。しかしこんな短期間でここまで定着したのも現地で彼らを応援する力強い味方あったのだと思えばよくわかる。
 在日同胞の人からしたら本国から来たタレントたちを日本でどうにか成功させてあげたいと思うのは当然だろう。もし彼らが今まで在日ということで芸能界で肩身の狭い思いをしていたならなおさらだ。その感情や紆余曲折した歴史の流れから見れば起こるして起こった韓流ブームなのかもしれない。
 芸能界に関してはよく知らないのでこれ以上何も言えないが、もし問題が「愛国心」というところまでいくのであれば、一言、自分がほんとに自分の国に対して自分を形作ってくれたという健全な愛着があるのであれば、自然に他の国の人にも同じような感情のあることを感じるはずで、しかしそれがただの自己主張に「愛国心」をなり下げてしまうのであれば、それは本来の「愛国心」とは違うとだけ言いたい。もちろんこれは片方にだけ通じることでなく、誰にでもあてはまることだ。
(続く)

韓流について 1

 私はここ何年間かずっと韓国に住んでいる。そのため日本での出来事はインターネットを通してのニュースでしかわからない。最近、フジテレビの韓国ドラマやハングル文字の大量の放送がずいぶんと話題になっているニュースをネットで見た。きっかけはいち俳優のツイッタ―のつぶやきからだと言うから少々驚いた。
 確かに韓国のネチズン(ネット市民)たちもすごい力を持つ。故盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の大統領選、選挙当日の最後の数時間、いや最後の数十分だったかの劇的逆転当選は「ノサモ」(ノムヒョンを愛する集まり)というネットを中心とした活動勢力の力が大きかった。ネチズンの力を国民的に認知させた大事件となった。しかしその分ネット文化のマナーの重要度が高まる。韓国のネチズンのマナーははっきり言って悪い。芸能人はそれで精神的に追い詰められる例が今でも後を絶えない。
 フジテレビの偏向報道と言われる視点の是非をちょっと横に置いて、私はまず日本のツイッタ―が悪用されるスキのたくさんあることが、心配になった。
 さて本題の韓流についてだが、まず思うことは、もう相当のバブル状態だろうにということである。「なぜあのドラマが今頃日本で流れているのか」とか、「え、彼も(彼女も)日本へ行ってデビューするの?」と韓国の芸能界をそれほど知らない私でさえ、猫も杓子も日本へ行くのかとよく思っていたものだった。
 そして今、このフジテレビの韓国偏重報道と一部で批判されているのだから、「ああ、やっとそろそろ潮時が来たのかな」と私は簡単に考えていたのだが、どうやらそうでもないようだ。
(続く)

神谷美恵子さんの記事を1か月だけ中断

 8月の末から重要な仕事が入り、ブログに向かってじっくりと腰を落ち着けて文章を打てなくなってしまった。神谷美恵子さんの思想の探索は、私もいろいろな発見や認識、また考えさせられることが多くて静かな刺激を受けるのだが、1か月間はこの時間が持てそうにない。
 9月は日々の雑感を中心にブログに向かい、神谷美恵子さんの記事は10月から再開することにする。

神谷美恵子 6 スイス時代 その2

 このスイス時代で特筆したいことが二点ある。それは彼女の良心の萌芽とも思われる出来事と、おそらく彼女の原風景であろうと思われるスイスの自然についてである。

 彼女たちが暮らしていた家は豪奢な石造りの3階建ての建物だった。政府からの正式派遣であり、国際舞台ではまだまだ後進国であった日本の威信を一身に背負う大使の役目もあった。そのため何かにつけて「日本の恥」にならないようにという標語のもと、日本での生活とはずいぶんとかけ離れた背伸びをした暮らしだった。家の一階の応接間には金色のスタインウェイのグランドピアノが置かれ、テーブルやソファや椅子も木材はすべて金塗りで、背や腰かけや肘かけの部分はゴブラン織りの布で覆われていたという。
「この大きな家の応接間の、この大きなピアノの前に足をぶらぶらさせながら腰かけ、教えに来て下さるやせた、若い女の先生が、恥ずかしそうにそばに立って、バッハ、クープラン、ラヴェルなど、やさしく編曲したものを弾かせて下さった。こうした曲への好みは私が成人するまで、否、私の子どもたちにまでぬきがたく心にしみついている。このほっそりした内気の先生にならっているとき、名状しがたい、うしろめたさのようなものを、レッスンのたびに感じた。それはこのピアノの先生がいかにも貧しそうだったからだ。S学院の時は金持ちの令嬢たちの間で自分が貧しいという意識で恥ずかしかったのだが、この場合は逆の立場に自分が立ってしまっているのが、もっと恥ずかしく思えたような気がする」
 聖心女子学院で自分の貧しさが恥ずかしく子どもながらにつらい思いをしたことが、この内気な先生の言動に見え隠れして胸がいたくなったのだろうか。まるで自分が先生をいじめている加害者にでもなったような気持ちだったかと思わせる。彼女はここで貧富の差を超える考え方を知らず知らず模索し始めていたと言っている。 
 そして寺子屋学校でも心にチクリとする出来事があった。
「午前のおやつはめいめい自分の家から持ってくることになっていた。私たちのはマルグリット(家付きの小間使い)が作ってくれていたのだが、「プチ・パン」にコールド・ミートがはさまっていることが多かった。それに板チョコとか、果物を持たされる。りんご以外の果物は当時のスイスではぜいたく品らしく、いつか桃を持たされたときは、珍しい気がした。その桃の皮をむいていたとき、となりにいた白系ロシア人のサッシャという男の子が、ベンチの上をいざり寄って来て、熱心に私の桃の皮を眺め始めた。蒼白い、やせた子で、いつも寒そうにしている。
「ぼくにその桃の皮くれない?」とつぜん彼は言った。
「え?どうして皮を?実のほうがおいしいじゃない。実をあげましょうか」
「いや、ぼくは皮が好きなんだ。皮のほうが」
彼はそばかすだらけの顔をくしゃくしゃにしながら、断固として言い張り、むしゃむしゃと皮を食べてしまった。
 彼は実のほうが好きだったにちがいない、とその後私は罪の意識とともに確信するようになった。S学院で私はいつも自分を「貧しい者」と意識していたのに、いつの間にか「富める者」になっていたのだろうか。あのやせたピアノの先生やこのサッシャや、夏避暑に行って遊んだ土地の子どもたちの眼に、私たちが「富める者」と映っていることに気づいて、いうにいわれない申し訳なさのようなものを感じたのは、スイスへ行ってから二年目ごろかと思う。「日本の恥」にならないようにと、家から召使から運転手つき自動車までそなえられていた「金持ち生活」は、わが家では後にも先にもないことだったのだが、なぜか私はこの点に居心地の悪さを感じ続けた」
 目の前にその人には何の罪もないのに幸せでない人がいる。それが社会のせいであるならば、社会に疑問を持つかもしれないが自分のせいだとは思わない。しかし自分の存在が目の前の人にひけ目や恥ずかしさを感じさせるならば、それはその原因となった自分を申し訳なく思う。本来守られるべきである彼らの人間としての尊厳を自分がおかしてしまったのではないかと思う。「いやそれは自分を卑下しすぎる彼らの被害者意識が悪いのだ。気にすることではない」と言う人もいるかもしれない。しかし自分の身分を恥ずかしく思い小さくなる姿は誰も見たい姿ではない。ましてやそれを誘発しているのが自分だとしたら、やはり申し訳なさを感じるであろう。
 昔自分も痛い思いをしたから、彼女の小さな胸はその痛みに同じものを覚えてチクリとしたのだろう。

 またスイスの自然で彼女の心に深く残った面白い風景がある。
「このころ(寺子屋時代)のことで、今考えてもどうしてだかよくわからないことがある。お転婆な女の子であった私が、夕方になると必ずひとり自転車に乗って坂を降りる習慣があった。
 ぶどう畑が段々になっている山の斜面をくねって行くと、やがてある曲がり角に出て、レマン湖が一望のもとにひろがって見える。鏡のような水面に乱れとぶかもめの群れ。湖のかなたにひときわ高くそびえるアルプスの一峰ダン・デュ・ミデイ。その山の雪の色が夕映えとともに刻々と変わって行くふしぎなすがたをあかずに見守りながら、じっと立ちつくしていた。これが美というものだろうか。美を味わうこともできないと思っていた私は、大自然にとけこみ、一種の畏れにも似た気持ちに満たされていた。いまだに私には審美的感覚が不足していると思っているので、あのときのことは何と表現していいかためらうばかりである。あるいは娘時代(20歳過ぎ)の神秘主義的傾向の前ぶれでもあったのだろうか。
 やがて湖から吹きあげてくる風が寒くなってきて、うしろの山から牛の群れが、首につけた大きな鈴の音をひびかせながら降りてくる。私はため息をつき、夢からさめた者のごとく自転車のハンドルをにぎり、坂道を昇って行くのであった。お天気でさえあればこの行動は毎日くりかえされたのだから、よほど内発的なことではあったのだろう。今となっては強いて解釈や説明はつけたくない」
 いったい山を見て何をしていたのだろうか。美しさに心打たれてずっと眺めていたのだろうか。来る日も来る日も毎日、、。私は山と湖とそれらを見せてくれている自然と、彼女は無言で話をしていたのではないかと思う。その美しさを自分に見せる自然と無言の言葉を交わしていたのではないかと思えてくるのだ。「今となっては強いて解釈や説明はつけたくない」のも当然である。言葉にならないし、言葉にしたらその小さな表現力しかない持たない人間の言葉の価値にまでそれが下がってしまうからだ。
 私たちも小さい頃、変に迷信を信じたり、ちょっとした決まりごとをなぜかずっと守り続けたりと、そんな無邪気なことをした覚えが誰にでもあるのではないだろうか。そんな無邪気さの中に自然を畏敬する心も同居しているように思われる。科学が発達したとしても人間の支配し得る自然は人間の思い込みの中だけのことであって、自然は堂々とやさしくその存在をそのまま現わしている。東洋と西洋の違いは大きいと思うが、そのような情緒を人は決して忘れてはならないと思う。その情緒を失わなければ人はいつでも謙虚になれる。西洋の場合はキリスト教がその役割をも担っているのかもしれないが。

神谷美恵子 5 スイス時代 その1

 父多門が国際労働機関の日本政府代表に任命され、任命期間中、家族全員現地で過ごすために1923年7月、スイスのジュネーブに向かう。
 ジュネーブでは「ジャン・ジャック・ルソー研究所」という“寺小屋”のような学校に入れられる。しかしこの寺子屋の自由な雰囲気が彼女にはぴったりだったようだ。
「一つの教室に一年生から六年生までの子どもたちがいて、一人一人別々な勉強をしていた。私にはたくさんのかるたのようなものが渡され、それに描かれているりんごだの、雄鶏だのの絵を、青表紙のノートに写し、同時にカードの裏に書いてあるローマ字の単語を、絵の下に記すように指示された。アルファベットを知っていたのが、せめてもの救いだったが、その単語の読みかたがわからない。la pomme, le coq などを小声で言ってみても、それが「ほんとうの発音」であるかどうかわからない。「ほんとうのことが知りたい!」とじりじりしてくる頃にシャンポ先生がまわって来て教えてくれ、私に復唱させる。このかるた式教授法は毎日つづけられたが、教室内の勉強よりも休み時間に友だちと遊ぶことによって、ずっと早くフランス語を覚えたと思う。みんな別々に勉強していても、午前10時から30分間、近所の公園に遊びに行くことと、皆いっせいに歌を歌う時間だけは例外であった。(中略) 今考えてみても、いったいあの学校の方針は何だったのか、よくわからない。ただ寺子屋方式であったこと、生徒各自がいわば独学していたこと、大きな子も小さな子も、強い子も弱い子も皆一つの教室で学んだことくらいしか思い出せない。(中略‐手元に残っている成績表の評価のし方を見ながら‐) この学校で目標としていたのは学力をつけることよりも、人間づくりの基本と、学ぶことの基礎をとなるものを育てることであったのだろうと思われる。いわゆる勉強よりも、「注意力」とか「従順さ」など一連の徳目を優先させているところをみてもそれがわかる」(『遍歴』より以下省略)
 東京のまだ田舎風情の残る泥んこ道を長ぐつで歩いていた女の子が、ジュネーブでまだ社会の学校制度の歯車に組み込まれずに、個性が何かともわからない年齢に個性をそのまま温存してもらえた環境にいられたということは、幸せなことだったと思う。
「貧富の差、人種の差、健康度の差まで全く無視されて、一人一人の子供が独立人格として扱われ、勉強もほとんど独学で、各自の好奇心と能力に応じて、個人授業に近いことが行われていた」そしてそのいろいろな差は寺子屋では全く問題にならなかった。
 寺子屋を卒業すると、同じ建物の3階にあった「国際学校」の中学部へ進んだ。この学校は国際連盟の創設と共にその各国代表の職員家族のために作られたようである。そのため寺子屋のような地元の子どもたちが通うような雰囲気はまったくなく、いろいろな人種、民族の子どもたちが集まってきていた。ここでだんだんと大人社会の一端が見え隠れし始める。
「ここでは各クラスをフランス語組と英語組とに分けられた。英国人もいたが、それよりもアメリカ人が圧倒的に多く、彼らのために英語組がつくられたと言っても過言ではない。兄と私は一学年の差でフランス語組に属していたが、英仏両陣営の間に多少の摩擦があったことは否めない。大ざっぱにいって、ヨーロッパ人にとってアメリカ人とは何か違和感があるものらしい。その違和感を当時私もヨーロッパ人とともにわかち持っていたのだから、考えればおかしなことだ。(しかし)もっと微妙な差別のあることにある日私は気づいた。黒い髪をした、かわいらしいアリーヌ・メイエルというスイスの少女―と私は思っていたのだが―と仲よくしていたら、青い眼をしたアメリカ娘がそっと私の耳にささやいた。
「だめよ、あの子と親しくしては」
「なぜ?」
「だってあの子ユダヤ人ですもの」
シャーリー・デイヴィスがさも恐ろしいことのように声をひそめていう、その顔を私はふしぎに思って眺めた。まだ12,3歳のアメリカ少女がこんなことをいうのは、その親たちや周囲の社会通念のせいだったのであろう。ともかくこれが「ユダヤ人問題」との最初の出会いだったが、どう考えてもアリーヌはいい子だったので、私たちの友情に変わりはなかった」
 そのような中でも担任のポール・デュプイ先生はフランスの最高学府、高等師範学校の出身で、またそこで地理学を教えていた碩学の人で、高い視野からたくさんのことを教えてもらった。この先生の影響は大きかったという。
「デュプイ先生ほど私たちが質的にも時間的にも多くを教えられた先生はない。あまりにも幼かったために、その先生の「知恵」充分吸収しえなかったことが悔やまれるが、それでも漠然と何か「第一級」のものに接した思いがいつまでも残っている。中学校の子どもがああいう「大物」に教えられるという好運は、めったにないことなのだろう」と記している。本当の意味で知識や知ることに喜びを感じる学問の人の持つ、知に接する喜びに触れたのだろう。そしてこの先生は小さい者に対する愛情にもあふれていたようだ。美恵子がジュネーブを経つときにブラジルのめずらしい蝶の標本の小箱とともにこんな手紙を送っている。
「ジュネーブ、1926年11月1日
 私のいとしいミエコよ
 この小さな蝶を私の思い出に持っていて下さい。あなたの国の最も偉大な芸術家たたちは感情や観念のシンボルを、自然の中から最もよく、ひき出すことのできた人たちです。
 この蝶をあなたにあげるのは、自然そのもののものをあげるわけですが、それはあなたにそうなって欲しいと思うもののシンボルであるからです。シンボルという考えが浮かんだのは、あなたにふさわしいと私が考えたからなのです。羽の表面はしなやかで、深い、光を放つ濃い色。それらの色はいつの日にかあなたを立派な日本女性に育てることでしょう。羽の裏面には、はなやかで快活な図柄が奔放にあそんでいる。それはあなたの若々しい活気、陽気を現わしており、それによって友だち皆と仲よくできたのです。あなたの人生を通じて、知恵の裏側がいつでも快活さでありうるように、一生があなたにとって充分穏やかなものであるように、私は心から祈っています。
 フランスのおじいさんとしてキスさせて下さいね。
                              ポール・デュプイ」
 学問分野の世界で評価と地位を得た博士が、名もなき小さな小さな女の子に期待と可能性をこめて蝶の標本を送り、それをていねいに説明している姿はなんとも微笑ましい。50年以上たった今も大切に保管していると彼女も言っている。

神谷美恵子 4 幼少期

 これから彼女の人生をいくつかに区切って見て行こうと思う。
 まずはスイスのジュネーブへ行くまでの幼少期、正確に言うと小学校4年生1学期までの時期と、両親について簡単に見てみる。

 父、前田多門の実父は大阪心斎橋で商人をしていたが、当たりはずれが大きく生活は安定していなかったようだ。多門は一生懸命勉強し東京帝国大学に入学、そして卒業後内務省に入る。新渡戸稲造が顧問をしていた普連土学園で、成績優秀で総代として卒業する房子に 新渡戸稲造が目を留め、配偶者にと二人の仲を世話をした。房子と結婚した頃は、実家の生活はままならなかったようだ。多門の俸給の半分を大阪の両親と二人の妹に仕送らなければならなかったらしい。
 母の房子の生家は米仏と生糸貿易をして相当な金持ちだったらしいが、父は若死にし、その上父が金を貸していた男に屋敷を放火され全焼してしまった。祖母は5人の子どもを抱えて無一文から生活をしなければいけない羽目になってしまった。しかし祖母はしっかりした人で、再婚することなく子どもを育て上げた。房子は活発で成績のよい子だった。経済的に余裕のない家であったが、富岡市からの給費生としてアメリカのクエーカー教徒が創設した女学校(普連土学園)へ進学した。
 さてこの二人の間に二男三女の子どもが生まれる。美恵子は1914年、兄を一人置き長女として岡山県で生まれるが、父親の仕事の関係ですぐに長崎、そして東京へと転居する。
 東京で小学校に上がる。兄妹たちは成城学園に就学したが、彼女だけは地元の下落合小学校に通った。しかし自分だけ地元の公立小学校に上がったことをすねるでもなく、かえってよかったと言っている。
「当時はまだ田舎という感じのところで、万事がのんびりしていた。私のような神経質な子どもにはピッタリの学校だったのだろう。ろくに勉強しなくてもやさしい先生がかわいがって下さったし、隣には親切な上級生が住んでいて毎朝さそいに来てくれた。大きな麦わら帽子をかぶり、長い草履袋をぶらさげ、友だちと並んで泥んこの道を長ぐつで歩いている写真が一枚残っている。この下ぶくれの小さな女の子の顔を見ると、土から生えたばかりの雑草のような、単純な「生きるよろこび」がそこから発散しているようだ。この泥んこの田舎道こそ、私に最もよく適合していたエレメントだったにちがいない」(『遍歴』より)
 しかしこの生活は1年しか続かず、二年生の時には聖心女子学院小学部に編入する。そこからは少々つらい学校生活に変わる。
「生徒は華族や金持ちや、上流階級の令嬢たちが主で、当時はまだ珍しかった自動車で送り迎えされている者も多かった。気どった「あそばせことば」。厳格な規律。黒い尼僧服をまとった先生たち。――「田舎の学校」から来た泥くさい女の子にとって、変化はあまりに大きかった。階級的な劣等感ともいうべきものに圧倒された。(中略)この劣等生にとって何よりつらい「苦痛の儀式」は毎週月曜日、生徒めいめいが白い長手袋をはめて、きちんとプレスをした紺の制服を着て、しずしずと列を組んで礼拝堂へ行くことだった。(中略)やがて担任の先生が一人ずつ生徒の名前を呼びあげる。呼ばれた者は静かに立って聖堂の真中の通路を通り、「校長様」と呼ばれる最高位の尼僧の前に立つ。校長様は、その生徒の先週間の成績を記した巻ものを渡して下さる。各学科目に甲乙丙丁がつけられるわけだが、私はめったに甲の評価を与えられたことはなかった。これも当然私の劣等感をつよめ、私をますます内気にした。ある日のこと、その恐ろしい月曜日なのに、私は白手袋を持ってくるのを忘れていたことに気がついた。どうしよう。相談する先生も友人もまだなかった。融通のきかない、臆病な私としては、みっともない方法をとらざるを得なかった。同級生が礼拝に行っている間、自分の机の下にちぢこまって隠れていたのである。こういう自分はいまだに心のどこかに住んでいるような気がする」(『遍歴』より)
 小学校4年の1学期を終えるまでこの萎縮した学校生活を続けていた。そしてその後、解放感と自由と成長をもたらしたといわれるスイスでの生活が始まるのである。

神谷美恵子 3 略歴

1914年 岡山に生まれる(父は戦争直後、文部大臣となった前田多門。母は群馬県富岡の富豪金沢家の三女、房子。兄はフランス文学者の前田陽一。そして二人の妹と弟が一人いる)
1920年 東京、下落合小学校に入学。
1921年 聖心女子学院小学部に編入する。
1923年 父多門がジュネーブの国際労働機関の日本政府代表に任命され、家族そろってジュネーブで暮らす。ジャン・ジャック・ルソー教育研究所付属小学校へ編入する。その後、ジュネーブ・インターナショナル・スクールへ進学。
1926年 家族全員帰国する。自由学園に編入するが、学風が合わず登校拒否を起こし、数か月後に成城高等女学校へ転校する。
1932年 成城女学校を卒業すると津田英学塾に入学。
1934年 叔父(金沢常雄)に誘われて多磨全生園を訪れ、強いショックと感動を覚える。ハンセン病患者に接する医師になろうと決意する。
1935年 津田英学塾大学部へと進学する。結核に侵され軽井沢で療養生活をする。
1938年 アメリカ、コロンビア大学、大学院でギリシヤ文学を学ぶ。
1939年 クエーカー教徒が創設したペンドル・ヒル学寮に移る。
1940年 帰国
1941年 東京女子医学専門学校本科へ編入学。
1943年 長島愛生園へ行く。
1944年 東京女子医学専門学校卒業。東京大学精神科医局に入局。
1945年 終戦と同時に父親が文部大臣に就任し、文部省で通訳・翻訳業務に従事する。
1946年 神谷宣郎(当時、東大理学部講師)と結婚する。
1947年 長男、律 誕生
1949年 次男、徹 誕生。マルクス・アウレリウス『自省録』翻訳出版。
1950年 アテネ・フランセでフランス語を教える。
1951年 芦屋に転居。愛真聖書学園分校として自宅でフランス語を教える。神戸女学院大学の非常勤講師になる。
1952年 大阪大学医学部神経科に研究生として入局。カナディアン・アカデミーでフランス語を教える。自宅でフランス語の私塾を開く。
1954年 神戸女学院大学助教授に就任(英語・英文学)
1955年 母親房子死去。初期癌が発見されラジウム照射で治療。神戸女学院大学で非常勤講師としてフランス語、精神衛生を教える。
1957年 長島愛生園の非常勤職員としてハンセン病の精神医学的調査を行なう。
1960年 大阪大学より医学博士の学位授与。神戸女学院大学社会学部教授に就任。『生きがいについて』の執筆を始める。
1962年 父親多門死去。大阪大学助産婦学校で精神医学を教える。
1963年 津田塾大学教授に就任(精神医学と上級フランス語)。四国学院大学でも非常勤講師として精神衛生の講義をする。アメリカ、イギリス、フランスへ海外視察。
1965年 長島愛生園精神科医長となる。
1966年 『生きがいについて』を出版。バージニア・ウルフの病跡研究のためイギリスへ行く。
1967年 愛生園精神科医長を辞し、非常勤医として診療を続ける。
1969年 ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生』翻訳。
1970年 ミッシェル・フーコー『精神疾患と心理学』翻訳。
1971年 『人間をみつめて』を出版。
1973年 『極限のひと』を出版。
1974年 『こころの旅』を出版。一過性脳虚血発作により入院。芦屋より宝塚に転居。
1976年 津田塾大学教授を辞任。バージニア・ウルフ『ある作家の日記』翻訳。
1977年 『神谷美恵子エッセイ集』Ⅰ、Ⅱを出版。
1978年 『精神医学と人間』を出版
1979年 10月22日、心不全により死去。 
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heban

Author:heban
東京都出身
43歳

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